安吾捕物帳
坂口安吾の安吾捕物帳を風呂で読んでいる。
すごく面白いのだが、なんか既視感(既読感?)に近い感覚を覚える。
理由は単純明快で、山田風太郎の明治探偵モノに空気が似ているのだ。
小説でも映画でも時代や国の匂いがある。
フランス映画にはフランス映画独特の匂いがあり、
死刑台のエレベーターと禁じられた遊びには同じ匂いがする。
もちろん太陽がいっぱいにも同じことを感じる。
ドイツ映画はドイツ映画の、邦画は邦画独特の空気がある。
ハリウッド映画は、どんな題材を使ってもハリウッドだ。
話は変わるが、日本文学はなかなか特殊らしい。
英語圏の文学は、たとえ400年前の小説でも普通に読めるらしい。
もちろんそこに流れる空気の違いはあるかもしれない。
「古めかしい」表現が立ち並んでいるだろう。
しかし、その手の時代感覚をのぞいては普通に読むことができるそうだ。
しかし日本語は、例えば100年前の小説を現代人はかなり読むのが難しいらしいし、
200年前になるともはや読むのに特殊技能が必要となる。
時代の匂いってレベルではない話らしい。
そういう意味では、大正から昭和あたりの小説ってのが
読むことに支障がなく空気の違いを感じられるギリギリの線なのかもしれない。
この空気の話で言うと、例えば連城三紀彦の「戻り川」などは
あの短い大正の時代をものの見事に表しているそうだ。
その表現の方法は、時代特有の物事を描写しているのではなく、
まさに空気を表現しているらしい。
だから、連城の表現能力には感服するしかない。
私には、好きなミステリはたくさんある。
その中で風太郎の明治断頭台は特異な位置を占める。
文体やプロットあるいはトリックもいいが、
それ以前に小説全体に込められた風太郎の哲学が好きなのだ。
いまの世に失われた気概に感じ入るのである。
この意味で安吾のミステリにその気概は見いだせない。
それは、安吾が無頼派と呼ばれる所以なのかもしれないのだが、
でも、彼らの探偵小説に漂う空気は非常に似ている。
両者の短編ミステリを混ぜこぜにして一冊の本にしても
おそらく違和感なく読めるのではないだろうか?
いやあ、おもしろい。