情報か体系か?
チョムスキーのことを書こうと思っていろいろ考えていたら、
頭の中はゲノムの話に取って代わられた。
先日、神戸理研の西川伸一先生と長い時間話す機会があった。
話は、時間・宗教・ゲノム・進化などなど取り留めなく多岐に渡ったのだが、
そこで西川先生は「ゲノムは単なる情報に過ぎない」という意味のことをおっしゃった。
私はゲノム自体は情報の枠を超えて「自己完結できる(閉じた)」体系であるとの立場を取っている。
単なる何かを指し示す情報としてゲノムを捉えることは私にはもはやできそうにないのだが、
おそらく西川先生は、その生物種を形づくるための情報であって
それ以上でもそれ以下でもないという意味合いのことを話されたのだろうと思う。
私は、ゲノムの情報はそれ自体が論理体系であり、
三位一体のように生物のかたちとゲノムのかたちは本質的に同じものだと思っている。
この辺りが構造主義生物学者と考えを異にしているのかもしれない。
もちろんゲノムの情報だけでは生物は作れない。
必ず卵の存在が必須であろう。
しかしこの議論を始めたら、「卵が先かニワトリが先か」の議論に陥るように思う。
さて、ゲノム自体が単なる情報として扱われる背景には
生物=機械論があるような気がしてならない。
だから設計図としてのゲノム情報が必要であるという感覚を私はもってしまうのだ。
でも、ゲノムはそれ自体が一つの体系として閉じていなければ成立しない。
たしかに一つ一つの情報は存在するのだが、
その情報自体がそれぞれに関係し合って大きなかたちを作っている。
ゲノムだけを覗けば時間を止めたかたちであろうが、
その情報は時間軸に伴う変化を伴うわけで、
それをもがゲノム情報に組み込まれていると考えてしまう。
だからこそ、ライプニッツ的に時間を相対的に考えざるを得ない。
で、なにに違和感を覚えているのかを考えると、
たしかにゲノムを情報だと言っても否定できないところがあるのだが、
しかし、設計図的な情報を思い浮かべると心のどこかが明確に否定する。
それがなになのかは分からないのだが、
この思考がチョムスキーから始まっていることと関わりはあると感じる。
チョムスキーは生物個体にまで言語を制約したように思う。
言語が持つ社会的な関わりという意味合いや、
それによって言語が変化するということを定義として否定した。
この辺りの思考からゲノムの情報についての議論へとつながったのである。
何となく言いたいことが見えているようで、霞がかかっている。
もう少し考えよう。
まとまりがつかなくてごめんなさい。