行き詰まらない為には・・・

 

で、昨日の続きである。

世紀末には新興宗教がはやると誰かが言っていた。

真偽のほどは定かではないが、

近代社会になる前の西欧社会における世紀末というのは、

現在の我々が感じている世紀末とは空気が違うのかもしれない。

そして、人は心が不安定になると何かに頼りたくなる。

だから、不安定な社会状況や、不安定な家庭環境、

あるいは不安定な人間関係や経済状況などなど、

心身の健康ってのも安定を生むのには大切だろう。

それらが崩れてくると何が起こるのか?

 

例えば、安定性とは心の「かたち」が揺らがないことだろう。

強固というのではなく、少々のゆらぎを吸収できる柔らかい安定である。

強固であれば、固いものにぶち当たったら壊れる。

しかし、それまで安定だったものが、経済的不安や病気などなどによって

かたちを構成する要素の一部に変化をきたしたとき

全体のかたちが体系として成立できなくなると、

心はたちまち不安定になるだろう。

不安定なままでは崩壊するしかないので

変異を受けた要素が関わる関係性を新たに構築しなければならない。

そこに、宗教の存在意義があるのではないかということである。

 

多くの人間は、心の一定部分を他人に依存していると思う。

異存の度合いは人により異なるだろう。

全体重を家族や恋人に乗せている人もいる。

そういう人は、体重を乗せる相手が何らかの事情でいなくなれば、

己の重さを支えきれずに倒れるだろう。

だから、自分の両足で立とうと私は思っているのだが、

それでも間違いなく多くの人に私の心は支えられている。

人間関係以外にも、趣味や食事など日常の生活に心の安定を満たされていることもある。

その安定(すなわち「かたち」)を構成する要素が変異したら

安定がぐらつき時には崩壊することもあるだろう。

そこで人は傷つく。

その変異した要素の関わる関係性が新たなかたちで構築されるまでは、

傷ついたまま悩み苦しむのだろう。

その新たな関係性を構築する一つの候補として宗教があるのではないか、

私はそう言いたいのだが、

これは宗教の良い面も悪い面も含めて、一つの存在意義として考えているわけであり、

決して宗教そのものの是非を論じるつもりなどない。

 

さて、ここで長々と他愛もないことを書き連ねてきたのは、

かたちとは要素が構築する関係性のことであり、

それは言語を含むあらゆる論理体系であるという前提で、

もちろん心の安定も、ある意味では論理的な安定であるべきで

(心だから「情緒的」というのは違うと思う)、

論理に関係する宗教の意義は、哲学でも心でも相同なのではないかということである。

 

で、宗教をこのように考えると、興味深いことが見えてくるように思う。

というのは、宗教そのものが前提であり、それを基準に一般論が進むとすれば、

そこが揺らいでは絶対にいけない。

その際に、異なる前提条件同士が互いに関係し合うことが可能かと言えば、

それは論理的に無理であると思わざるを得ないのではないだろうか?

唯一絶対の神が何人もいたら、それはマズいと私でも思う。

だからこそ、宗教間対立は熾烈であるし、

どちらも互いに相手の価値観を認めることなどあり得ない。

すなわち安定したかたちを構築できないのだ。

で、かたちを安定させる為の宗教の意義について考えてきたように、

宗教間のかたちを安定させる為の宗教ってのはどういうものなのだろう???