宗教と哲学

題名は規模が大きすぎますね。

いつも通り、それほどの内容ではありません。

 

西洋哲学の書物を眺めてみると、

もちろんその内容にもよるのでしょうが、

キリスト教的宗教観と言うか死生観みたいなものが

その底辺に横たわっているように感じられてなりません。

倫理学や神学の議論ではない思想哲学の根底にキリスト教が必ず存在しているように思えます。

これは、神を信じないと言う宣言をした哲学者や思想家においてさえも、

その神を信じないということに大きくとらわれてしまい、

それ故に、結局、キリスト教的思想に支配されているように思えます。

 

で、私のような人間が論理について考えるのと、

キリスト教、あるいは唯一絶対の神を前提において論理を考えることの違いが

もう互いに歩み寄れないくらいに遠いもののように感じてしまいます。

ハイデガーが存在について語る時に、その奥底に神が見え隠れします。

 

ちょっと違う見方をしましょう。

梅原猛の文章を読むと仏教の匂いがする。

彼は自身を仏教者だと言っているのでそれは当然なのですが、

その哲学とキリスト教の哲学がどれだけ相容れるものなのか?

真理が一つならどこかに同じ到達点があるのでしょうが、

依って立つ基盤がこれだけ異なる時に同じ論理を組み立てられるとは思えません。

私には仏教すらもよく理解できていないので、

その前提からして梅原とは異なるわけです。

その上で、何をどのように考えていけば良いのかに悩んでいます。

哲学とは己の頭で考えることだと理解していますのでそれで良いのかも知れません。

でも、やはり過去の偉人の思想との議論をしてみたいのです。

これがなかなか難しい。

 

ところで、私は仏教者ではなく、ましてやキリスト教の信者でもありません。

だから、私には無理に排除すべき宗教的思想がないと思います。

もちろんこの日本に生をうけ、日本語で思考してしますので、

仏教などの教えを知らず知らずのうちに体得しているのは避けられませんが、

それはまあかなり希薄というか、最低限のところではないかと思います。

少なくとも、西欧の人々が日々の生活からうける宗教的な思考よりは

薄っぺらいと感じています。

以前から申し上げています通り、

何かを積極的に排除することは、そのものごとに傾倒することと等しいわけで、

分子を徹底的に毛嫌いすることと分子至上主義とは

表裏の違いこそあれ、その根は同じであるとしか言えません。

だからこそ、西欧の哲学を読み解くことはなかなかに困難なのです。

まあ、宗教的な前提から理解するに努めれば良いのかも知れませんが、

それは何か違うと思ってしまいます。

その思想の本質的なところを見いだすために

宗教を切り離すことはどれだけできるのでしょうね?