氷河とglacier2
ことば論にも書いたことだが、
上位の文章によりその意味ができ上がる場合に、
その意味が本当に共有できているのかについて疑問が生じる。
例えば、赤色というのは明確に定義できない。
ただ、生まれ育った過程である色を指して「これは赤色」と教えられる。
赤色ではない色も教えられる。
そうすることで赤色の概念を切り出してくるのだ。
で、この色というのはア・プリオリには存在していない。
ヒトの眼にある色を感じる細胞が持つ光受容体タンパク質には
特異的に吸収する波長があり、その光を感じて色を認識する。
普通(普通が何か分からないが)ヒトには
赤・緑・青を認識する細胞(タンパク質)があるので、
それらの組み合わせにより「色」という概念を認識する。
だから、この色の組み合わせだけでこの世に存在する全ての「色」を作ることができ、
その三色を三原色と呼ぶのだが、あくまでも人間だけの「主観」であって、
物理学的に三原色が何か重要な意味を持つものでは決してないのである。
三原色の波長はあくまでも「たまたま」であって、それ以上の意味はないだろう。
そして、その認識したさまざまな組み合わせの中から、
生まれ育つ間に「赤色」の範囲を切り出してくるという訳だ。
だから、その光受容タンパク質に突然変異が入った場合には
脳が認識する「色」は、普通の人が認識する「色」とはまったく異なる。
しかし、その人も生活の中で「赤色」を識別して育つ。
この場合、まったく異なる「色」として脳が感じているものを
同じ「赤色」として意味付けしてしまうこととなるのだ。
ちょっと議論はそれるが、
光受容タンパクが3種類しかないというのは面白い。
進化の過程でたまたま三つになっただけなのかもしれないが、
もしこれらの遺伝子が重複し、それぞれに微妙な突然変異を持つことで
何十もの波長を同時に認識できることとなり、
それらの吸収波長の範囲が重複してしまったらどうなるだろう。
要するに三原色といった独立する吸収波長ではなく、
可視光の範囲で全ての光の波長をまんべんなく認識することになったら・・・
もうちょっと想像できないが、私たちの色の識別はどうなるのだろう?
なんとなくだが、どの波長の光もまんべんなく同程度に認識したら
そこには色は存在できないような気はする。
そう考えると、三原色は「たまたま」だと上に書いたが、
この波長が進化的に選ばれた何らかの意味が存在するのかもしれない。
自然界に存在するさまざまなものを見分ける為に有用な波長の違いとか。
そして、その波長を逆手に取って擬態というものの進化もあるのだろうか?
とにかく、定義できないような感覚を表現する言葉には
意味は明確に存在するのだが、
その意味が指し示す実体が非常に不安定で不確かな状況が生じる。
またまた話はそれるが、
医者に行くと「どう痛いですか?」と聞かれることがある。
でも、しくしく痛いという痛さが私には分からない。
その痛さを経験して、「これがしくしくだよ」と言われない限り、
いま自分が感じている痛みが本当に「しくしく」なのか分からないのだ。
まだ「色」なら、自分の認識が他人とは違っているかもしれない可能性はあれども、
他人と同じものを見て「赤」とか「青」とか言うことで確認できる。
でも痛みだけは、それを感じているのは自分自身であって、
他人は私の痛みを感じないし、自分も他人の痛みを感じることはできない。
このようなことって上げてみればきりがないくらいに日常的にゴロゴロしている。
こういうことを考えると「意味」についてなかなかみ不明確となってしまう。