氷河とglacier1

言葉の意味がア・プリオリに決まらないと書き続けている。

意味を持った単語が並んで文章の意味ができ上がるのではなく、

文章の中にその単語があって初めてその単語の意味が決まるということだ。

これは間違いなく正しいと思う。

犬とdogは、たまたまそれをさし示すものが同じだと言うだけで、

犬=dogではないと言うことである。

 

さて、こう決めつけて書いてしまうと少々マズいことにもなる。

例えば標題にある氷河とglacierである。

氷河とglacierは、たまたま同じものを指しているのではおそらくない。

日本には氷河が存在しないから、

glacierが指すものを氷河と言う日本語を作って表現している。

だからこの場合は氷河=glacierである。

これ以外にも(科学的に)定義できるものは同様に考えて構わないかもしれない。

ただし、その場合も少々難しい。

定義に端を発する単語はどの国の言葉であっても等号で結ぶことができるだろう。

原子とatomはまったく同じものを指し示している。

そうでなければならない。

だから、訳語も同じ意味を持つべきである。

その国の言葉にその概念が存在していなかった場合には、

その概念を指し示す言葉を作らなければならない。

氷河とglacierはまさにこの場合だろう。

ただし、元々氷河というものを有する複数の言語の場合はどうだろう。

例えばイヌイットとノルウェーで同じ氷河を指し示す言葉の意味が

完全に等しいということはあり得るだろうか?

例えばイヌイットのいう「水」と日本人のいう「水」は、

その言葉が指す概念に違いがあると言う。

このように、日常的に使われることばとしての単語には

その意味をかたちづくるのに生活や環境が大きく影響しているはずなのだ。

 

と書いてしまうとなんだか綺麗にまとまったようにも見えるのだが、

ここでも矛盾をはらんでくる。

すなわち、では日本語の氷河の意味はノルウェーの氷河なのか、

イヌイットの氷河、あるいはアメリカの氷河なのか?ってことである。

これはおそらく、その単語の概念を輸入したときの国の意味に等しいだろう。

もしも、この言葉が科学的概念を輸入した時に日本語として使われたのであれば、

科学の定義に等しいとなるはずだ。

まあ、氷河という特殊なものを指し示す言葉が、

日本語で生活する限りにおいて日本語に入ってくることはあり得ないだろう。

だから、文章を翻訳したり、あるいは紀行文を書いたり、

また観光案内などでその単語が用いられるにすぎないだろうと思う。

とすれば、その意味は科学的な定義の域を超えることはないはずだ。

というか、この文中で「ノルウェーの氷河」「イヌイットの氷河」などと書いている時点で

日本語の氷河という言葉の意味は明確となっているだろう。

すなわち、さまざまな国のさまざまなひょうげの意味の中に

普遍的に存在する意味を切り出して「氷河」としているとしか考えられない。

そして、その意味こそが科学的な定義となっているのだろうと思う。

 

さて、余談だが、いまのところ氷河という日本語にはひとつの意味しかないだろう。

しかし、美味しいものを食べた時に「ヤバい」という日本語を使い始めたように、

氷河という言葉も違う文脈で使われ始めたら科学の定義とは別の意味を持つことはできうる。

「奈良の大仏」と同じような使われ方が可能であるということで、

上位の構造によってのみその意味が決まるということなのだ。

 

まあ、余談はさておき、要するに、上位の関係性によって切り取られる概念と、

科学的に明確な定義付けされてからできあがった概念は

分けられなければ混乱しそうだ。