推理小説の長さ
いつもながらの私見である。
どうも、長編推理小説で失敗をすることが多いように感じる。
感じるというのだから、雰囲気の域を超えない程度のものだ。
おそらく、長い時間と体力を費やして読んだものが駄作だったりすると
その疲れは短編の何倍にもなるから、
駄作の印象がより強く残っているだけの話なのだろう。
ただ、それだけではない、長編特有の傾向もあると思う。
こればかりは作品名をあげられないのだが、
ある作品では分量の三分の一が美術の解説にあてられていた。
それも最後のトリックに関係するのであれば構わないのだがそれもなかった。
こちらは「ここまで細かく書くのだから絶対に意味があるはずだ」と思って読む。
それが完全に肩すかしってことで、作者にしたらミスディレクションのつもりかもしれないが、
それはやり方がズルいと感じてしまう。
だって、これなら素人でも書けるもん。
美術書を丸写しすれば良いだけの話なんやから。
で、これは無理矢理に長くしただけのことで長編となった。
ただ、この手の長編は短くしたらたぶん読めない。
トリックもプロットもなにもない、長さでごまかすだけのものなので
贅肉をそぎ落としたら骨も筋肉もないハリボテだったと言うことにしかならない。
私は、とにかくどんでん返しを好むので長くても短くても構わないのだが、
できればダラダラ長くするよりは、最適の長さにまとめて欲しいと思う。
言い換えれば小説の長さには、その長さでなければならない意味があるわけで、
長過ぎても短すぎてもダメなギリギリのところを見極めて欲しいと思う。
どんでん返しモノではある程度の枚数は必要かもしれないが
謎解きものなら短ければ短いほど良いと個人的には思っている。
これはもちろん個人の趣味の問題なのだが
ケメルマンの9マイルなんてこれ以上長くてもこれ以上短くてもいけない。
天城一などはストイックに短いがこれはこれである意味で完璧だろう。
綾辻のどんどん橋も好みの長さだし、
こうなってくるとなかなか長編に手が伸びないのだ。
長編にはダラダラ感があってはならないと思っている。
推理小説は物語とは異なると思うので見分けさえつけば人物描写に力を入れずとも良い。
もちろん、素晴らしい物語であるに越したことはないのだが、
肝心のトリックやプロットが二の次におかれるようではダメだ。
山口の「屍」のように徹底的に遊び心を費やして欲しい。
彼の仕事は必要最低限の分量で成立していると思う。
だからこそ、あの分厚い「屍」もあの長さは最低限必要だったという訳である。