行事

行事と言っていいのかどうか分かりませんが、

何か(誰か)に対して何かを行なったということで、

と言ってもまだ何のことやらよくわからないと思いますので、

少し例を挙げます。

 

あるときによく行くレストランからいきなり花が届きました。

見ると「誕生祝い」ということでいつか話した誕生日を覚えていたのでしょう。

まあ、照れくさいという気持ちでしたが悪い気はもちろんしませんでした。

そうすると、催促するつもりは毛頭ありませんし、

相手の厚意なのだからいただいたことだけを感謝すればいいのですが、

やはり、翌年も期待という言葉はかなり違うのですが、

まあ送られてくるという心構えというか、

当然来るものだという気持ちになっているわけです。

この気持ちが卑しいのかも知れませんが「欲しい」というのではないのです。

まあ説明が難しいのでなんともいえませんが。

で、翌年はなにもきませんでした。

その次も、次の次も・・・・。

結局は最初の一回だけ、何かの気まぐれで送ってくれたのでしょう。

その行為自体を否定するつもりも非難するつもりもありません。

 

期待していない時の「サプライズ」は簡単です。

でも、それを継続することは難しい。

年賀状でも出し続けるということにこそ意味があるのだろうし、

どうしてもこういうことを考えてしまいます。

なにかをしたら、相手は必ずそのことを覚えているだろうと思います。

小さい頃、父親が出張から帰ってきた時に大好きな人形を買ってきてくれました。

父親は、それこそたまたま目についたから、

あるいは「サプライズ」の気分だっただけなのでしょうが、

子供としては出張とお土産が関連づけられています。

それから出張の度にがっかりすることになるわけです。

これは理屈ではない、理屈では一度でもいただいたことに感謝しようと思うのですが、

でも、言葉にできない小さな期待があるのは仕方ないことだと思います。

だから、一度でも何かをしたら、した方こそが覚えていなければならないと思うのです。

 

私は偏屈な性格の持ち主です。

自分が中心になる場がとても苦手です。

誕生日にしても送別会にしても、とにかく全てを避けます。

だから、誕生日を公にはしていません。

理由は分からない、多分に「自意識過剰」な傾向が出ているのかも知れません。

でも、もしかしたら誕生日を公にして、

当日に誰からも忘れられている時の寂しさを先に回避しているのかも知れません。

どんなに小さくても期待を裏切られるのは、

それが誰のせいでもなく、誰が悪いわけではなくても、

いや誰も悪くないからこそ、寂しい気持ちになるのだろうと思います。

 

いつの頃からか覚えていませんが、

私は親しい人間を作らなくなりました。

親友はおろか、友達すらも「いない」と断言しています。

日々の行動も基本は一人だし、今ではそれが一番楽なのです。

小さな期待をして、それを裏切られることから極力避けているのでしょうか??

なんか分かりませんが、幼児期に何かあったのかな?