箸と着物
昭和に入ってもけっこう長い間、庶民の服は和装だったようだ。
今では和服はかなり特殊な状況でしか着ないと思うが当時は逆に洋装の方が特殊だった。
で、現状から想像するに洋装が増えてくるに応じて
和装に対する自虐的な見方が生じてきたのではないだろうか?
布切れ一枚を一本のひもで身体に結びつける和服というものを野蛮だとする見方があったのは事実のようだ。
同様に箸も、なんだか貧乏ったらしいという見方が一時期あったと聞く。
着物と同様の論理で、気の枝を二本つかって物を挟むというのが洗練されていないということらしい。
さて、この見方は180度転換することができるのは今では普通に考えられていることだ。
すなわち、布をひもで身体に結びつけるだけのことなのに、
そこに様式美を産み出した日本文化のすごさである。
たかが日本の木の棒に礼儀作法をあたえ、また芸術的な側面を持たせることが、
どうして洗練されていないとなるのだろうか?ということだ。
極めて単純なものに様式というかたちを与え、意味を与える。
そこに美という、形式を越えた遊びを与えることが日本の伝統であり文化であるということなのだろう。
街を歩いて看板や広告を見ると、とにかくアルファベットが多い。
なぜここまでアルファベットを用いるのかにもおそらく理由はあろう。
それは、多くの日本人が仮名や漢字よりもアルファベットを、
日本語よりも西洋語(特に英語)を「格好いい」と感じているからだと思う。
まあ、これは間違いなく敗戦後の自虐史観に依るものは大きいだろうし、
戦後の連合軍統治下での日本国民への教育の賜物だろう。
すべてにおいて日本は欧米に及ばないという価値観を根づけられたのだと感じる。
グローバル化、自由主義、成果主義、民主的という概念が
その伝統や意味を伴わない形式で導入された。
いま一度、箸の美しさや礼儀作法を思い起こし、
着物の形式美に思いをはせることはとても大切なことだろう。
日本の良いところを外国人に聞くと「思いやりの心」という答えがよく上がるが、
これこそが日本文化の最も美しいところだろうと思う。
何にしても、他人を蹴落としても構わない、
自分さえ良ければそれで問題はないという気持ちを持つ人間には
箸や着物の美しさを愛でることはおそらくできないのだろうと思う。