山口雅也さん

好きな作家に山口雅也さんがいます。

彼の実験的な作風には考えさせられることが多く、

それは推理小説の領海を越えて考えさせられることもよくあります。

思想的にそれっぽいのは「奇偶」でしょうが、

私にはむしろ処女作「生ける屍の死」から始まり

探偵士やキッド、あるいは日本殺人事件につながる一連の山口ワールドにこそ

その本質的な思想があるように感じています。

 

己の認識自体とその認識によって感じられる「物」の間をどうするのか?

これがいつも私には問題となるのですが、

例えば「絶対世界」があったとして、

我々はその中に存在しているとしても、

それを我々は自分の感覚器の限界を超えては認識できず、

あるいは自分の思考・論理体系に依ってしか理解できない訳です。

その論理とは、たとえば数学の論理による認識もアリでしょうが、

その論理の前提としていくつかの条件をおかなくてはなりません。

その中で非ユークリッド幾何学は成立するのだろうと思います。

だから、この世の中に、少なくとも人間が理解しうる絶対というのは考えられない。

西田幾多郎ではないけど、絶対無なんてことを言い出した途端に

それ以降の論理の構築が難しくなる・・・・

というよりも、西田幾多郎には分かっていることかも知れませんが、

受け手である私の中で論理が立てられなくなるように感じます。

 

で、山口さんの論理構成はこの観点から非常にシンプルだろうと思います。

すなわち、SFのような世界を構築し、

その世界でのみ通用する規則を組み立てた上で、

その規則によって論理を展開する訳です。

こちらの世界にいる我々としてはどうしてもこちらの論理性で物語を読み進めてしまう。

そうすると、途端に論理は破綻し迷宮にはまり込むという感じでしょう。

 

思考するにはまず認識しなければならない。

認識するにはカテゴリー化し、あるいは差別化して

ひとつの単位として物事を切り取って来なければならない。

その切り取った物事を要素として、それらの間の関係性を構築し、

構築された関係性がその場での論理となると言えるでしょうが、

この過程を見事に推理小説の中で行なっていると感じるのです。

カテゴリーかが異なり、あるいは差別化が異なれば、

脳の中に入ってくる情報の質が異なる。

しかも、それらの間の関係性の付け方が異なれば

同じ現象を対象としてももはや生じる論理性は完全に異質なものとなるはずです。

その異質性を読者には明確に示しながら隠蔽する巧みな語り口で物語は進むので、

最後の最後まで読者は騙されるという感じでしょうか。

 

たとえば連城三紀彦さんの小説は、

山口さんのように認識の段階でのトリックはありません。

あくまでも、大括りすれば我々と同じ認識で物事を切り取り、

我々と同じ論理性でそれを表現します。

そして言語表現の技術によって間違った方向へと読者を誘うのです。

これは作文の名手にしかできない芸当であることは間違いなく、

おいそれと真似をすることができそうな気はしません。

ただただひたすらに「脱帽する」のみです。

 

山口さんの小説には「ハッ」とする瞬間があり、

なぜそれに気付かなかったんだと口惜しい思いをする瞬間があるのに対して、

連城さんの紡ぐ物語にはただただ感心させられるしかないという感じでしょうか。

 

いつものように文章に収拾がつかなくなってきました。

認識と存在についてもう少し考えてみます。