規制って・・・

牛肉による食中毒の話があった。

実際にひどいことだと思う反面で仕方ないと感じることもある。

学生あたりの若者を対象にした安い焼肉店がたくさんある。

食べ放題で2千円とかあるいはそれよりやすいところもあるそうだ。

実際にそんな価格で提供される肉ってどんなのだろうと不思議に思う。

経営努力で何とかなるレベルの値段ではないように思う。

そんな店でもユッケは提供されているそうだ。

はっきり言って私は食べるのが怖い。

 

さて、ここでお決まりの議論が始まる。

国による規制の動きだ。

ケースバイケースだが、私はこのレベルの規制を是とはしない。

先日書いた原理主義の話と同様に、

この手の話を理屈で攻めると身動きが取れなくなると感じるからだ。

私の話をこれまでお読みくださっている方からは「???」と思われるかもしれない。

起こり得る可能性をすべてつぶすことが危機管理だと発言してきているからだ。

それはその通りで、最悪の状況を想定するのが危機管理であることは間違いない。

しかし、長きにわたって生活に密着した物事に関しては私の思いは異なる。

生活の知恵、おばあちゃんの知恵袋ってのが一番大切だと何度か書いたことがある。

今回のはまさにそれで、牛肉を食べ始めて百年以上、

本家の韓国ではおそらく何百年もの間、生の牛肉を食べてきたはずだ。

しかも、特殊な殺菌消毒をせずに来ておそらくは何の事故も起こっていないだろう。

データをみたことはないが、生活の知恵っていうのはすごいもので、

もしも何らかの問題が常時起こり続けるのならその方法は生活の中に残り得ない。

現実に、数百ではきかない焼肉店が何十年にもわたってユッケを提供し続けており、

このような問題はおよそ耳にしない。

それを、今回の問題だけで規制をするということは

私たちは自分たちの首を絞めることになると感じるのである。

生活というフィルターを通して時間という淘汰圧をかけてきた習慣というものには

存在しなければならない意味があるというのが私の考え方である。

だから、生活の知恵の話でなければこの議論の俎上にはあげられない。

例えば、何か近代的な方法、例えば効率や価格を優先できる方法、を導入した場合には、

それは生活や時間のフィルターをかけられていない訳だから

安全性には厳密な検討が必要だし、そこには厳しい規制があってしかるべきだと思う。

 

もう10年以上前の話になるが、日本で初めてBSE(あのころは狂牛病と呼んでいた)が見つかった。

それまで日本ではBSEは絶対に起こらないと盲目的に信じられてきた。

家畜飼料をBSEの原因と知られている国から輸入していて、

世界から「危ないから対策をするべきだ」と言われているにもかかわらず、

厚生省は「日本ではBSEは起こらない」と言い続けてきた。

そして、予想通りにBSEの問題は発生した。

これなんかは原発やその他の図式とまったく同じであろう。

起こって欲しくないことは「起こらない」と言って、後は目をつむる。

そして起こったら「想定外」として、

責任は可能な限り誰か他の人たちになすり付ける。

 

余談だが、こういうことを考えていたらふと気になることができた。

日本には「臭いものには蓋をする」とか「のど元すぎれば熱さを忘れる」とかの諺がある。

そういう精神状態やその感情を生む社会風土がなければこのような言葉は生まれないと思うのだが、

諸外国にも似たような諺はあるのだろうか?

似たようなという意味は、その言葉が持つ本質的な意味の似ているということであって、

表面的にこの言葉に似ているという意味ではない。

 

BSE問題の時に問題視されていたことは、最近の営業効率の問題である。

牧草を食べて牛を大きくするには時間もかかるし効率も悪い。

でも、家畜の消費後に必然的に残る「肉骨粉」を試料にすれば

早く大きく育つので効率が良いということである。

で、この肉骨粉がBSEの原因であった訳だ。

要するに、これは生活や時間の、もっと言えば歴史の洗礼を受けていない。

人類にとっては未知のことがらなのである。

もし、これを歴史の目で考えたら良く理解できると思うのだが、

何らかの事情により同種の肉を食料として牛が生活をしてきたなら

おそらくかなり高い頻度でBSEに感染してきたことだろう。

いちど感染すればそれは指数関数的に増加する可能性すらある。

そんな生物種が残って来れますか?

逆に、河豚のどの部分を食べたら大丈夫なのかは経験的に知っている。

それは、これまでの先人の知恵であり多くの犠牲の上にたった経験則である。

現在の感覚からいえばグロテスクにも思えるナマコやタコも食用とできることは先人の知恵だし、

食べられる茸と毒キノコを知るのも科学的分析によるのではなく生活に根付いた経験である。

科学はそれらの後追いをしているにすぎないのだ。

だから、習慣としての「生活の知恵」とは

進化における淘汰圧を受け現存している生物と同義なのだと言っても過言ではないように思う。

 

 

要するに、何でも規制と叫ぶのではなく、

規制の対象を歴史の目から判断することが重要なのであろう。

その意味で少し危惧することがある。

以前にもどこかで書いたと思うが、

我々は放射線の身体に対する影響を高々70年ほどの知見しか持っていないことである。

だから、まだまだ症例は少ないがせいぜい発ガン性などの影響を知っているにすぎない。

放射線の障害ではDNAに影響があることが特筆すべきことである。

それは子孫に及ぶ影響である。

今後数百年を経て検証されるべき問題であって、

現時点で軽々に論じることができる問題ではないということは肝に銘じておくことだろう。