つり銭

朝から新聞記事を眺めていたら

「プロ棋士が直観的に次の一手を選ぶ際、

アマチュアにはない脳の神経回路の活動がある」とあった。

さらに「この直観を導く回路は普通の人にもあるが、

長年の訓練で上手に使えるようになると考えられる」らしい。

最新技術を用いて科学的にこれを証明できたのは素晴らしいことだが、

何となく「そんなことは当たり前やん」と思ってしまった。

また、これを脳の中の領域に帰結されてしまった(ように感じられる)結論は

何となくだがすこし違うと思う。

fMRIなどを使った脳の解析を、最初の内は「すごいなあ」と感心していたが、

最近では、その機械論的にも感じられる説明にすこし疑問符がついてしまう。

人間は完成されたロボットであり、

その部品が一つ一つ明らかとなっていくような感覚におちいるのである。

何度も書いているが、生きものを機械論的に扱うのは間違っている。

だから、機械の歯車を組み合わせれば生きものができるような発想、

生きものを部品の集合体と見る発想は本質を見誤ると感じてならない。

 

ただ、この研究自体を非難する気にはなれない理由がある。

たとえば、私が内容を理解できる科学記事などにであった時に、

どうも新聞記者の解釈が間違えているように思えてならない時が多い。

だから、私が読む新聞記事も記者の視点に依る記事となり、

それだけ変にねじ曲げられて伝わってくることも可能性としては十分あると感じる。

勉強不足で恐縮だが、私は一般の新聞記事でしか個の手の内容に触れないので、

本当は研究者がもっとしっかりと本質的な研究をしているのだろうとも思うのである。

 

話は変わるが、今朝、コンビニで買い物をした。

合計金額が972円だったので1022円を出して50円玉のおつりをもらった。

ここでふと考えたのだが、

私はこの時に引き算をしていない。

もちろん足し算もかけ算も割り算も、何の計算もしていない。

このような時に普通に一円玉のおつりが返って来ないお金の出し方をしている。

あるときレジの前で小銭を用意したあと何の気なしに引き算をしたことがある。

すると1022−972=・・・・この引き算がとっさにできないのだ。

だから、自分が出した小銭が正しいのか急に不安になった。

で、恥をかくのもイヤなので結局千円札を出して28円のおつりをもらってしまった。

 

ここで、いつものかたちの話に持って行くと、

私の頭の中には算数とは別の何らかのかたちができていて

細かいおつりをもらわずに済む金額がとっさに出てくるようになっているのだろう。

先の新聞記事にならえば「アマチュアにはない脳の神経回路の活動」が存在したのだろう。

それを、あらためて引き算ということをしたものだから

そのかたちがゲシュタルト崩壊してしまったということだと思う。

 

これは、例えば個人的には英語を話す時に経験する。

英語を何も考えずに話す時にはまあいろいろと話している。

でも何かの瞬間に、構文とか熟語とか時制とかが頭をよぎったら

もう英語が口から出て来ない。

だから、すこし酔っている時の方が英語での会話は進むのだ。

また、本番で緊張していつもできていることができないとかも

おそらくはかたちがゲシュタルト崩壊しているのだろう。

計算にしても、英会話にしても、運動にしても、

とにかくそれらのかたちは脳にできている。

それがゲシュタルト崩壊してしまうのだろう。

この場合、ゲシュタルト崩壊とは「意識すること」と同義であることが多いようだ。

意識すること、すなわちかたち全体を受け入れるのではなく、

要素を見てしまうことになるので

ある文字を見続けて違う文字に見えてくるようなゲシュタルト崩壊が起こる。

別の言い方をすれば、かたちを認識することは関係性、あるいは「間」を感じることであり、

何かを見ようとすると「関係性」や「間」は見えないので

結局、そこにある「もの」を切り出してみることになる。

これがゲシュタルト崩壊の正体なのではないだろうか?

こう書いてくるといつも「色即是空」という言葉を思い出す。

色を見た瞬間にそれは空となすけれど、

空を眺めていればそこには色がたしかに存在するのだということだろう。