自己と非自己
昨日、「以前に書いた文章」を貼付けました。
で、それらをお読み頂いた方には申し訳ないのですが、
自分の書いた文章のまとめという意味でも
このコラムに過去の文章を随時載せていきたいと思います。
書いた本人でも、「こんなことを考えていたんだなあ」と
昔の自分に感心したり呆れたり・・・・。
過去にお読み頂いた皆さんも
以前の橋本と今の橋本の考え方の違いに気付いて下さい。
「色即是空」(2002,6,1)
生物は、「自己」と「非自己」を区別することから成立しています。
我々の身体を守る免疫系などは分かりやすい例です。
免疫系では、たくさんの免疫担当細胞が警備隊を編成して、
自分でないものを排除しようと日々努力しているわけです。
この様なミクロな場所を離れて
我々が存在するこの地球上の環境を考えたらいかがでしょうか?
野性動物には群集を作って「自分達」と「それ以外」を区別するものがいます。
個の生存に有利だとも言われますが、
逆に「個」ではなく「集団」の生存に有利だとも考えられます。
「村八分」という言葉が生まれてきたように、
我々ヒトの村社会などは
明確に「仲間」と「仲間以外」を意識させるものでしょう。
政治の社会で以前から取りざたされている「派閥」も同様のものかもしれません。
全て生物学的?な意味があるのでしょう。
少なくとも「仲間」の形成によって個体が生存するための何らかの利点があるはずです。
この様に考えると「自分と他人を意識すること」は、
生命体が成立し維持される上での根源的な生物としての働きなのかもしれません。
老子に面白い「ものの見方」があります。
結局のところ「自分以外」というのは「自分」が作り上げた概念に過ぎないというのです。
「綺麗なもの」は「綺麗でないもの」が存在して初めて「綺麗である」と認識されるし、
「賢い」にしても「賢くない」ものの存在に依存して成立する概念である。
もちろん逆の場合にも同じことが言えます。
この考え方に沿って「自己と非自己」を考えると、
自分と自分以外を分けているのも「自分」に固執した結果であるようです。
森羅万象の全ては相対的なものであって
アプリオリに成立するものではないということで、
うがった見方をすればこの考え方が
「色即是空・空即是色」に行き着くのかもしれないと思います。
「自己」も含めた全ての「実体」は、
実はそれのみでは存在し得ない「実体のないもの」であり、
その「実体のないもの」が他の「実体のないもの」と
相対的な関係性を成立させることによって
「実体」が生じるくらいの意味でしょうか?
この様な考え方は東洋独自のものかと思っていたら、
中村館長に「行き着くところは東洋も西洋も同じ」と言われ
「そんなものか」と思ったりもしています。
さて、ここで「仲間」の話に戻りましょう。
では「仲間」ってどう考えればいいのでしょう?
やはり「仲間」も「仲間以外」が存在して初めて定義される言葉のようです。
全員が仲間だったら「仲間」という概念自体が存在し得ないのは自明の理です。
同様に「仲間以外」が存在しない環境では、
もはやそこに存在する全員を「仲間」とは言えません。
やはり「仲間」を形作るためには「仲間以外」を形作る必要が出てきます。
社会では、学校でも会社でも
いじめなどで「仲間外れ」が作られる傾向にあるといわれますが、
それは生物学的に見ても必然なのでしょう????