世界の・・・

古いところでは「世界の黒沢」がそうだった。

「世界の青木」ってのもあったなあ。

最近は「世界の渡辺謙」だ。

 

で、この「世界の」を考えてみると

「白人社会の」と翻訳できそうな気がする。

例えば国際映画祭で評価を受けるにしても

夕張国際映画祭ではダメで、カンヌだと世界になる。

香港もシンガポールもダメらしい。

その辺りだとせいぜい「アジアの」止まりである。

 

でも、たとえばアカデミー賞って大々的に宣伝されるけど、

投票権は映画芸術科学アカデミーの会員のみにあり、

大半はハリウッドの関係者だから、

例えばハリウッドで働く大道具さんたちも一票を握っている。

だから、映画評論家や新聞あるいは雑誌などの記者みたいな

客観的に見て公平な判断が入りづらいわけで、

まあいえば、すごく身内の集まりでの決めごとである。

極端な言い方をすれば、「隣村でも認められた」くらいのことだろう。

で、この「ごく一部の身内」で評価される事が「世界の」と認識につながるわけで、

大リーグの一番を決めるゲームを「ワールドシリーズ」と呼ぶ価値観にも似ている。

 

太平洋戦争で負けて以来なのか、明治維新からのトラウマなのか知らないが、

白人に対する負け犬根性が見え隠れするというのは言い過ぎだろうか?

それでいて同じアジアの人たちには意味もない優越感を持ち続け、

結局、中国にも韓国にもシンガポールにもインドにもどんどん追い越されている。

考え方の根本を見直さなきゃいけない時期はすでに過ぎ去ったようにも感じるし、

これからどうしたらいいんだろうね???

 

そういえば昔々、ある先生から「世界と戦っているんだからね」と

我々研究の仕事を例えて言われた事がある。

ある意味、それは正しい。

ただ個人的にはしっくり来なかったし、いまでもしっくり来ない。

研究なんて所詮は自慰行為だと思っている。

自分の納得のいく仕事をし続ければ良いと思う。

その上で、何らかの時流に乗れば「世界的」評価につながるだろうし、

「世界的」な一流紙に論文が載る事もある。

しかし、それと研究の質とは別個のものだと私は思っている。

いまの時流を敏感に察知しその分野の研究をしていれば

一番になれなくてもそこそこ良い雑誌に論文を載せられる。

しかし、それで良いのか疑問である。

だって、それだけ競争が激しい分野なのだったら、

その仕事はあなたがしなくたって誰かが近いうちにやってくれるのでしょ?

だったら科学の世界にとってあなたはいなくたって良かったじゃない?

って風にどうしても考えてしまう。

 

評価されなくても、己が納得できる仕事をしていけるかどうか

それが私たち研究者のいちばん重要視しなきゃいけないところだと思う。

極論は好みではないが、メンデルだって彼の死後に評価されたわけで、

ATP合成酵素の発見(化学浸透圧説という世紀の大発見)ですら

その当時は誰からも信じられなかった。

マクリントックだってそうだし、

彼らは己を信じて研究に打ち込んだから成し遂げられた成果であり、

そのときの流行を意識ばかりする事が良いとはまったく思わないのである。

 

これが日本人特有の思考傾向なのかどうか分からないが、

「世界の」と考える意識が間違った方向へと私たちを動かしていくように思う。

まあ、そこまで深読みする事もないのだけど、

「世界の渡辺謙」という言葉を聞いてなんとなくこんな事を考えてしまった。