時間をとめる?

以前のコラムで視覚情報は時間軸を必要としないと書いた。

これは何も私の説ではなく、すでに何人かの人が唱えている事である。

だから、かたちの情報として処理される場所は

視覚情報を処理する場所であるということで何となく納得していた。

でその後、触感でかたちを捉える時に時間軸はどうなるのかと考えてみた。

要は、触感には時間軸が必要であり、

時間の流れ無しにはかたちを認識できないからで

そうなった時に、触覚によるかたちの認識と

視覚によるかたちの認識が脳の中で同じ次元の情報になっているのか

パッと考えて良く分からないから考えてみたのである。

 

しかしここでまた、よくわからない状況に陥ってしまった。

生命活動を我々が行っている以上は、

我々の脳が何かを認識する時に時間軸が必要なのだ。

だから、たとえ入力が写真であってもそれを認識する時には時間経過が必要となる。

視覚情報には時間軸は必要なく、

聴覚情報の処理に時間軸が必要であると対立させたのは

形態と機能(かたちとはたらき)の対立に似ているからであろうが、

このときに受取手の側の時間を無視してしまった。

対象は写真撮影や固定などによって時間情報を失っているのだが、

その情報を受ける我々が生命機能としての時間軸を必要としている。

この事をどう考えたら良いのかがわからない。

触覚によって認識されるのは働きではなくかたちであろう。

そのかたちを認識する為には時間を止めてはならない。

 

少し話は横道にそれるが、

触感というものはかならず強弱の刺激が与えられ続けている必要がある。

何かに触れっぱなしだと触れているという感覚を失う。

これは分子レベルでも同じで、

転写因子がプロモーターに結合している状況ではシグナルは入らないし、

成長ホルモンが受容体に結合しているだけでもシグナルは活性化されない。

両者ともに、結合し離れる時にシグナルとして認識されるそうだ。

 

ということは、かたちとはたらきを考える上で

複数の時間軸を考察しなければならないということにもなるのだろうか?

頭の中がクラクラしてきた。