ゲノムと構造
かねてから書いたり話したりしておりますが、
私はゲノムというものを単なる遺伝子の集合体だとは考えておりません。
これは宮田先生のソフトモデルにも通じるものがあるのかもしれませんが、
たとえばチンパンジーのすべての遺伝子とヒトの遺伝子を交換したとしても
おそらくヒトゲノムは変わらないと考えているのです。
もっといえば,オーソログをすべてショウジョウバエのものと交換しても
人は人であろうとすら極論してしまうのです。
ヒトゲノムをヒトゲノム足らしめているものは
遺伝子同士が互いにどのように関わり合うのかが重要で,
これは分子生物学を勉強していると
つい分子同士の直接的な相互作用を念頭においてしまいがちなのですが、
それだけではなく、その個体が成立する為に間接的に関わり合うことも含めて,
ゲノムとは遺伝子と遺伝子の間の関係性に他ならないと思います。
関係性は物質的に捉えられないので科学の対象になりにくい
この点が検証可能性を阻み続けているのでしょう。
たとえば「意味」の話を考えます。
クリスタリンは脊椎動物の眼のレンズを構成する主要なタンパク質ですが
元々は代謝系の酵素であったものが「たまたま」眼のレンズに利用されたと考えられます。
この説明として、酵素という機能がレンズの構成要素という機能に変わったとされますが,
この説明は逆だと感じます。
元来クリスタリン分子自身が何か特定の意味を有していると考えるから
その意味が変化したとなりますが、
そもそも「モノ」に特定の意味などは存在し得ない。
したがって,あるものの意味を考える為には
そのものが置かれている環境や
そのものと関わるすべてのものとの時間的・空間的な関係性を考慮しなければならない。
その関係性の元に立ってその分子の意味が出現すると考えるのです。
だから、代謝酵素として働こうがレンズの構成要素として働こうが
クリスタリン自身は「我関せず」ってことで終わるのだろうと思います。
だからこそ,「遺伝子に意味付けしたら生物学を見誤る」と私は主張しています。
形の進化を考えると、「徐々に」という概念がたびたび登場します。
キリンの首にしても、「少しでも長い方が子孫を残しやすい」と仮定し
1cmでも長い方の個体が持つゲノムが次の世代に伝わることで
集団として首が長い方向へと「進化」するとの説明です。
もちろんこの方法で何でも説明できますが、
ひねくれ者の私などは「すべてを説明できる論理は信用ならない」と思います。
一つの疑問は,上の議論は集団内に存在する遺伝的多形の中で
少しでも首の長い集団を選択する力にはなるでしょうが、
その範囲はその時に存在する集団内の限度内に収まるのではないのか?
ということなのです。
祖先キリンゲノムの範疇で見られる形態の変異は基本的に多形か奇形でしょう。
だから,奇形として淘汰されない変異は正常の範囲内を逸脱できない。
そこから、明らかに異なる種を規定するゲノムがどのように生じたかの議論で
多形と自然選択では,説明はできるのですが、どうも納得できないのです。
「徐々に」がたびたび採用されるのは「極端に」に抵抗があるからでしょうが
発生学的に見たら徐々に変わるのと極端に変わるのは同じだけの変更を必要とするわけで、
多形の範囲を超えれば、あと1cm首を伸ばすのと1m首を伸ばすのは
機構論的には対して違いがないと考えられます。
多形の範囲はスポーツ記録の「人類の限界」みたいなもので
その辺りまでは非常に優れた人には可能であるが
たとえば100mを5秒で走ることはまったく別の話だということです。
しかし、これも多形と自然選択の説明でできてしまうところが気持ち悪いのです。
発生学的には首の大きさを規定する機構(遺伝子の関係性)を
根本から変更しなければならないということで、
徐々にで説明できる範疇を大きく逸脱していると感じられる訳です。
だから,多形と自然淘汰の話を聞くと、
「その説明で大腸菌から人が作られる」と思ってしまうのです。
話がずれました・・・。
また、ゲノムへの変異は「中立的に」起こる訳で,
その変異は有利な変異も不利な変異も関係なくゲノム上に蓄積されます。
だったら、「徐々に」という考えをゲノムに視点を移して考えればどうでしょう?
ゲノム上の遺伝子には変異が蓄積されますが、
積極的に悪さをする変異以外はゲノムの中に隠されます。
ゲノムは父母からそれぞれ受け継ぎますので片方の遺伝子が変異を受け
使い物にならなくなっても他方の遺伝子が補えます。
進化の過程では遺伝子の重複も起こりましたので
一つのコピーが正常であれば、その他のコピーは変異を受け入れることができる。
また、分子シャペロンというなんとも不思議なタンパク質があって
少々変異を受けたタンパク質でも正常の形に戻してしまうから、
認識されない変異として「隠し絵」みたいな状態でいられるなど
基本的には変異をゲノム上に「徐々に」蓄積することができます。
何もいちいち変異を形態に反映させて自然淘汰にかける必要はないかもしれないのです。
私はゲノムを遺伝子同士の関係性と考えていますので,
変異が限界まで蓄積したゲノムでは,
これまで通りの関係性をもはや形づくることが厳しくなり
逆に変異遺伝子同士が新しい関係性を作る可能性が現れるのではないか?
そのことによって,形態的には急激に新しい生物が出現しても構わないのではないか?
などと考えるのです。
進化学者は「少しでも有利な変異があればそれは集団に残りうる」とします。
この説明自体に異論はありませんが,
では「少しでも有利な変異」を考えると分からなくなります。
たとえばマンチェスターの工業化によって環境が一面すすに汚れ真っ黒になったとき
白い羽根の蛾は目立ちやすく天敵に捕食され,
突然変異によって黒い羽根を獲得した蛾は目立たなく生き延びたという例や,
マラリアが発生する地域では鎌形赤血球の方が貧血にならず生存に有利であると言う例など
有利な変異が子孫に伝わりやすいと考えられますが、
これらはどちらも特殊な環境におかれた場合のことであり
その特殊な環境というものがそれまでのゲノムにとって不利であるという前提があって初めて
新たな変異が、それまでのゲノムよりも有利になる訳です。
現存する生きもののゲノムは何億年もこの地球環境において洗練されています。
この環境によって自然選択を受けてきた選りすぐりの精鋭たちなのです。
ここに何らかの変異が有利に働くとはちょっと考えにくい。
カンブリア爆発も、環境の短時間での急変により引き起こされたと考える訳ですが,
これも、環境の変化がそれまでのゲノムの維持を拒み、
したがって新たなゲノムの出現を容認せざるを得なくなっただけの話でしょう。
だから、いつの時代においても極端な環境変化が起こった場合を除いては
生きものの形が極端に変化することには自然淘汰以外の可能性を考えたくなるのです。
たとえば,一旦脊椎動物の祖先が何らかの機構で形づくられたら
その後,我々ヒトに至るまでの変化は
多形と自然選択でもなんとなく説明できそうな気がします。
でも,ホヤの祖先から魚類の(すなわち脊椎動物の)祖先が分岐したとき
多形と自然淘汰で説明されてはどうも目覚めが悪いと感じてしまいます。
今日は関西大学の講義で準備をしなければならないのに、
こんな文章を書き始めて時間が無くなりました。
続きは後日・・・・。