細胞周期の意味 その3

単細胞生物は常に増殖(分裂)を繰り返しているが、あえて「分化」と呼びうる現象があるとすれば、それは「胞子形成」ではなかろうか。胞子形成する時には、当たり前の話だが、細胞分裂は完全に停止しなければならない。生存のために生物は胞子形成という仕組みを進化させた。生物学的な必然性によって獲得された仕組みが、元の意義を超えて、仕組みだけがずっと維持されたまま多細胞生物になった。多細胞生物を構成する個々の細胞は胞子形成する必要はないのだが、どこかで胞子形成に近いことをする必然性が生まれた。

この場合の必然性とは、淘汰から逃れる方法と言っても良いだろう。生物学は目的論を捨てたが、生物は淘汰されずに残っていかなければ絶滅するわけで、とすれば生命の存続を「目的」と表現することが誤りだとはまったく思わない。だから、とにかく淘汰されないことを目的として、その方法を探し求めるのが生物の本質だろう。実際にはこれも間違いで、すべては結果論である。淘汰されたものは現存しないのだから、結果として淘汰されなかったものが理屈の上では「正しい」とされるのだろうから、それを「目的」とするのは論理的には間違っているとするのが普通である。ラマルクが否定されるのはこの理屈である。でも、こと生物においては、論理を展開する我々自身が生きものであり、その論理の中では淘汰されて残れなかったものは「なかったもの」とされるのだから、残ることを目的として議論しても間違いではない。というか、その論理展開しか残り得ないのではなかろうか。ただ、「残るために進化した」というロジックが誤りであることは当然のことである。ここはもう少し丁寧に議論すべきところであるが、いつものように議論が放散するので、また別の機会にしたい。

(つづきます)