また号泣か・・・

オリンピックでは毎日感動させられた(I’m impressed.やI’m moved.みたいに、感情を受動態で表す英語的な表現だな)。

で、少なからず選手たちも涙を流している光景を目にする。それを大きなメディアが「号泣」と伝えている。新聞やテレビがこの言葉を使うのはもうやめませんか。フィギュアの坂本さんは堪えようとしても堪えきれず声が漏れているので、ぎりぎりこれを「号泣」としてもいいかもしれないが(号泣は「泣き叫ぶこと」なので、私はこれでも号泣ではないと思う)、今回のオリンピックで私が見ていたシーンに限ると、悔し涙を流している選手は何人もいたが「号泣」している人は見当たらなかったように感じる。過去を振り返ってパッと思い当たるのは予選敗退した阿部詩さんや,連勝記録が途絶えた吉田沙保里さんくらいではなかろうか。もちろん、負けた人は皆、心の中では泣き叫びたいだろうし、誰もいないところでは大声をあげて泣いているのだろうと想像もするのだが、でも、見ていないことをあたかもそれが事実であるような表現はよろしくないと個人的には思っている。もっといえば、その瞬間を正確に表現してもらえるだけで、いやむしろその方が、我々の心に響くはずだ。

話し言葉でも書き言葉でも、強調の言葉が多くなればなるほど、その言葉の意味は薄れていく。本当に強調して伝えたいことが伝わらない。では、本当に号泣している状況をどう表現するつもりなのだろうか。「大号泣」で逃げるのか?「悔し涙」とか「堪えきれずに涙が溢れる」で状況は十分伝わると思うし、むしろこちらの方が心に響くと感じる。もし、これではダメだと感じるなら、適切な言葉を自ら探せばいい。それが「伝える」を職業にしている人の仕事だろう。人目を引きそうな強い言葉を安直に使用することで、その言葉の本当の意味は失われることに、言葉を商売にしている人たちは気づかないのだろうか。

言葉の意味はうつろうものだから変わっていくのは構わない。ただ、メディアは変化にあらがい、今の意味を最後まで大切にしないといけない存在ではないだろうか。存在意義を自らで否定するのは「自殺行為」にしか見えないのだが、深刻に考えすぎなのだろうか???