国債卓越研究大学 その2
こういう指標で測ったときに日本の研究は衰退の一途を辿っていると言われている。ひとつの理由として研究費が増えないことが挙げられるがゆえに、国債卓越研究大学なる制度を作ったのだろう。まあ、この制度がどれだけの成果を生むのかについては始まってもいない現段階で判断できるものではない。だからこそ、どのような哲学を持って次を見つめるのかが重要なのだろうと思う。それに、研究費はないよりはある方がいいに決まっている。いまCNSに掲載されている多くはお金がないとできない研究である。10年前では考えられないくらいの研究費がかかるのが現実である。だから、本音半分僻み半分で、「CNSに広告を出している企業の高価な機器が使われた論文しかCNSには掲載されない」という研究者も少なくない。その意味で、「いい雑誌」に載る「いい研究」ができないのはお金がないからだというのはあながち間違ってはいない。問題は「いい」の考え方だ。
何度も書いていることをここであらためて書くのだが、この30年ほどの間に国立大学の講座予算(公費)の額はとんでもなく減少している。各教室に配分されている予算は学生実習をすればなくなるくらいだと聞く。研究室に配属する学生の研究費を捻出することによって教員の研究費が消滅する。最低限必要な機器類でさえ故障しても修理ができないほどである。昔からよく言われる「年寄りの戯言」なのだが「昔は良かった」とつくづく思う。昔は、少なくとも小さな研究の種から小さな芽を出させるくらいの研究は公費で賄うことができた。だから大隈さんがノーベル賞を受賞したような研究が生まれたのだろうと思う。今は競争的研究費を獲得しなければ小さな研究すらも行なうことはできない。だから、今の日本からは大隈さんは出てこられないと思ってしまう。「選択と集中」っていうが、その選択を行なうのは今の偉い先生方である。今の「研究の衰退」を招いてきた偉い先生方が、まだ世間的に何の評価も受けていない研究の種をどのように評価(取捨選択)するのだろう。やはり、目先の数年くらいで結果が出るような、成果を具体的に期待できるような研究テーマを選択するはずである。それだったら、研究の質はその先生方の持つ物差しによって決められることになる。今の常識の物差しを基に優劣を判断することで常識を打ち破ることができるのか?ここが何十年も前から疑問に思っていることである。
(つづきます)