共通テストでカンニング?

先日の共通テストで、カンニングをして全科目零点になった受験生がいたらしい。

実際にカンニングなるものをしたことはないのだが、それは道徳観や倫理観によるものではなく、単に「カンニングできる地力を持ち合わせていなかった」だけのこと。実際に、カンニングをするとして何を持ち込むのだろうかと思う。たとえば数学や物理だと公式でも書いて持ち込むのだろうか?化学なら化学式か?それでどんな問題が解けるのか?と不思議に思う。そもそも公式を覚えられない人間が公式を使いこなせると思えない。では社会科ではどうだろう。歴史の人名でも地理の地名でも、その他なんでも構わないが、カンニング用紙にどれだけのことが書き込めるだろう?そして、それを適切に使えるのだろう?それで何点獲得できると考えているのだろうか?

何が言いたいのかだが、単に何かを持ち込んでそれを有効に使えるには、一定以上の能力が必要だと思うのだ。もっと言えば、カンニングペーパーを持ち込むとしたら、そこに何を書くべきかについて理解していなければどうしようもない。教科書や参考書を持ち込むとしたら、その書籍のどこをどう見たら回答につながるのかについて一定以上の理解や知識がなければならない。要は、まともに受験できる水準に到達していない人間がカンニングしても、おそらくほとんどの加点は見込めないと思うし、カンニングを有効に利用できる知識があれば、カンニングする必要はないということに、私の中では、なるのだ。これが、常々私が言うところの「カンニング学習」の発想につながる。カンニングで確実に点を取れる学生・生徒を教育によって育てようよ、ということ。ちょっとあることを知らないだけで、それさえわかればあとはすらすら理解できるのなら、その人はその分野を完全に理解できている。それが教育の目的ではないか?少なくとも研究者としてはそういう若者を欲する。

ここの本質とは離れるが、「カンニング」技術に関して蛇足を承知で書くとすれば、もちろん、IT技術を駆使して、いま出題されているものを外部に送って誰か(AIでもいい)に解いてもらうとか、まさに試験会場でAIに回答させるという方法なら、ただの愚鈍な学生でもカンニングの効果はあるだろうし、冗談ではなくその世界は目の前に迫っている(すでに行なわれているかもしれない)だろう。ただ、本当に実力をつけないまま大学に合格して、本当に人生が順風満帆に送れるかと言えば、古い人間の私から見たら、「ありえない」と思う。