議論
議論好きである。こう聞かされると、多くの日本人は「言い合いが好き」「討論で相手を打ち負かすのが好き」のように感じると思う。確かに若い頃は、討論というか、ディベートとでもいうのか、とにかく屁理屈を捏ねて言い合いするのが嫌いではなかったし、それで周囲に迷惑をかけていたことも多々あった。今では、逆に「相手を打ち負かすことを目的とする議論」はできなくなっている。
科学の本質は議論である、と私は思う。この場合の議論とは、この欄で何度も書いてきたことの繰り返しになるが、「相手の意見を無批判で聞き、こちらの意見を丁寧に話すこと」だと思っている。だから、打ち負かしを目的とする「議論」はもはや今の私にとっては「議論」ではないのだ。その違いは明白である。打ち負かしを目的とする議論の到達点は、議論の初めに存在している。「AかBか、どちらが正しいか?」という問いかけに対して、AまたはBの正当性を主張して喧々囂々言い合うだけの話で、どちらが勝つにせよ、ゴールは最初に存在している。対して、私が思う「科学の議論」は、議論の初めには誰も思っても見なかったアイデアを生むのである。これは本当に何度も経験してきた。議論の最終に知識が増えることはない。知識とは要素である。要素は増えないのだが、要素同士が織りなす関係性のネットワークが議論することによって大きく変化するのだ。だから、同じ単語を使っても、語られる全体像が全く異なってくる。時には正反対とも思えるような景色が突然目の前に現れる。これが「議論」の真価である。
勉強して知識の量を増やすことはもちろん大切である。ただ、それだけだと、既存のかたちの中に新たな知識を置くことで終わる。科学で言えば、新しい論文に書かれている新しい単語が増えるだけであって、全体の絵柄はまったく変化しない。時には、収まりが悪くても無理やりに既存のかたちの中に新しい知見を押し込もうとする。そうではなく、収まりがいいように、既存のかたちの方を見直す必要が生じているにも関わらず、既存のかたちに疑いの目を向けることなく、ただただそこに知識(要素)だけを詰め込んでいく。こうなったら収まり云々の話ではない。科学ではなく宗教に近いものになっている。だからこそ、ひとりでじっくり考え、他人と議論することで要素の関係性を並べ替えてみる行為は科学にとって重要なのだ。
文科省が学習指導要領で、これまでのような「教科書の内容を教師が一方的に教える」スタイルの変容を求めている。具体的には、「主体的に考え」「議論に積極的に参加し」その結果として「深い学び」につながる教育を求めている。文科省の考えの本質はわからないが、上の考え方からみて至極真っ当な変化だと思う。