勉強とは

勉強とは「学ぶこと」と辞書にある。額面的にはそれで構わないのだが、では同じことを学ぶときにすべて「勉強」と表して良いのだろうか?私の、あくまでも個人的な、定義からすると、勉強とは「苦しんで学ぶこと」だ。もっと言えば「苦しむこと」と言い切っても良い。では苦しまずに学ぶことをなんと呼ぶのか?それは「趣味」だろう。鉄道マニアはとんでもない量の知識を持っているが、興味のない人がこれをすべて覚えるとなれば「勉強」あるいは「苦学」であり、興味のある人が覚えることが「趣味」だ。「勉強」をしている限り、ものごとの理解は困難を極めると感じる。でも、そこに興味を持って学べば苦しみはないし学びも深くなる。

思うに、勉強ができる子供は、実は「勉強」をしているのではなく、学びを「趣味」にしているのではないかと思う。得手不得手も同じで、そこに面白さを感じ取れるかどうかにかかっている。だから、「勉強を趣味にできること」が最も重要なことであろう。そこには出会いがある。多くの場合は親兄弟、あるいは近い親戚や年上の友達なのだろう。父親が鉄道オタクだと子供も鉄道に興味を持つ可能性が高くなるだろうし、近所の釣り好きのおじさんにいつも誘われていたら、その子は釣りが好きになる可能性が高い。同様に、俗に「勉強」と呼ばれるものであっても、いい人に巡り合ってその本質的な面白さに気付かされると、勉強が「勉強」ではなくなる。

京大の先生の子供が京大に入ることが多いように思ったとき、ある人に「やはり遺伝ですかね?」と聞いたところ、「家に帰っても親が勉強している、それも趣味のように楽しんで勉強している。それを見て育ったら子供も勉強を面白いものだと感じる。そこに意味があるのだろう」と言われた。この辺りに教育の本質があるのかもしれない。表面的な知識を教えるのではなく、本質的な面白さを伝えることのほうが、その子の成長には重要なことなのだろう。