素朴な疑問・・・2
西国から戻りました。
引き続き素朴な疑問(実はこちらの方が本当に不思議に思ったことです)。
パワハラで告発された知事が県職員の過半数を占める労働組合から辞職を求められた。その際に、「職員との関係の再構築」をあげて「職務を継続する」とした。先日、職員のアンケートの一部が公表されたが、その内容について知事は完全否定している。
ハラスメントってそもそも「相手がそう感じたら成立する」類のものだと思う。裁判まで行って最終的に「ハラスメントには当たらない」となったとしても、相手がそう感じたという事実は消えない。さて、アンケートには具体的な記述も見られたと言われているし、その一部は公表もされているのだが、「その認識」はなくても相手がそう感じたという事実が重要であり、それを理解することなしに「信頼の再構築」なんてできるはずはない。だって、今回のやり取りを端的に書けば、職員はさまざまな具体例を挙げて「ハラスメントがあった」としているのに、知事は「そういう事実はなかった」「そのような認識はない」としているわけで、これでどうやって関係を再構築できるのだろう?「そのような認識」が知事にはなかったとしても、その行為が「相手に苦痛を与えているのだなあ」と認識することで初めて今後の関係改善の糸口となるのではないだろうか?「自分は何も悪いことはしていない」「(告発も)公益通報には当たらない」「(アンケートも)そのような事実はない」という態度でどのようにして関係改善ができるのか?「関係」って双方向の問題であって、一方通行ではもはや「関係」など成立しないと感じる。知事は何がしたいのだろう?とても不思議だ。
カール=ポパーは科学の定義として反証可能性を挙げた。「すべてを説明できるのは宗教であって科学ではない」としたわけだ。この知事は、どんなことにおいても自分の言動は「適切だった」とする。公益通報者保護法に反すると法律家から指摘されている内容も「適切だった」と話す。パワハラと指摘されている行為もこの人にかかれば「適切な指導」である。ワインを所望した際の発言の録音が公開された時にも、「県にすばらしいものがあると知って体験しておくことは、私がこれから県の施策をいろんなところでやっていくのにおいて大事なことだなと思っています」として、「適切だった」とする。この理屈が通れば、なんでもありだ。賄賂であってさえも「適切」とできる理屈だろう。もし、このようにいうのであれば、私なら自分で購入して試飲するだろう。この発言には、施策ではなく個人の利得しか感じられない。すなわち、この発言から見るに、論理などはすでに破綻しているということだ。とにかく自分の言動はすべて適切だとするように感じられる。とすれば、これはカール=ポパーのいう宗教ではなかろうか。ぜんぶ自分が正しいのであれば反対意見は必然的にすべて誤りとなる。これは、この人とは論理的な議論ができないことを示す。自分の考えなんて高が知れている。自分とは異なる意見こそが宝物である。それを知らない人がトップにいることの怖さを改めて感じさせられる。