長屋

先日落語家の人が話すのをテレビで見た。個人的にはちょっとショックな話だった。最近の人には「長屋」がわからないらしい。そう言えばかなり以前に素浪人という言葉の意味を尋ねられて驚いた記憶がある。たしかに、このような言葉の意味を習った記憶はない。というか、そもそも言葉の意味は文脈によって規定されるのだから、この言葉を単体で切り出して習うことに意味はない。日常的に出会う日本語の文章でそれらの意味を知ることとなるだけだろう。だから、今の人たちは長屋という言葉に日常的に出会わなくなったということになる。そう考えたら長屋という言葉に出会う機会なんて落語か時代劇くらいしかないだろう。落語は積極的に出会に行かなければ聞く機会はないだろうが、私たちが若い頃は日常的に時代劇がテレビで流れていたし、それを見ることは言葉通り「日常」だった。しかし、テレビ局が新しい時代劇を制作しなくなってもう10年以上になる。今の子は、「岡っ引き」も「同心」もわからないのだろう。というか、私たちが日常会話で使っている「水戸黄門の印籠」とか「お代官様」「越後屋、そちも悪よのう」「この桜吹雪が・・・」なんて言葉ももはや死語なのだろう。海外のドラマは流れているのに時代劇が姿を消すということを目の当たりにして、あらためて「文化」について考えさせられた。まあ、時代劇に限らず、生まれ育った年代によって出会う(出会わない)言葉はいろいろと違うのだろうな。