形態アトラクタ

もう三十年近く以前、脊椎動物の咽頭胚の構造を倉谷さんが「形態アトラクタ」と呼んでいました。今でいう「発生の砂時計モデル」のボトルネックの部分のように、形づくりの過程でどうしてもこの形態に吸い寄せられる、この形態を通らないと次の発生過程に進めないという事実からこのように呼んだのだろうと思います。

このアトラクタと呼びたくなる考え方を、そちらへの吸い込まれるからという感覚ではなく、それ以外の道を取れないからという方向で見るべきだと私は思っています。これは、常々書いてきている「進化は淘汰圧によって決まってきた」という思考につながります。進化とは、次に辿る道を作っていくのではなく、たくさんの選択肢から次を選ぶのでもなく、たくさんの選択肢の中から「行ってはならない道」以外を選択してきたという考え方です。行ってはならない道というのも適切な言葉ではありません。どの道を行っても構わないのですが、ほとんどすべての可能性には淘汰圧がかかっていて、その道を選んだら成体へと発生できないということです。逆に言えば淘汰圧がかからない、あるいはかかったとしてもかなり弱い場合にはそちらを選択することも可能で、それが多様性を導いたという考え方です。で、おそらく咽頭胚の構造を作る「原腸形成過程」には強い淘汰圧がかかっていて、ここを正しく行なわなければ正しく発生できずに、その変異は後世(次世代)へと残ることができない。

このように考えていると、私の思考の癖が見えてきます。例えば脊椎動物が出現する原動力となった「神経堤細胞の獲得」も、「神経堤細胞を獲得した」と考えるのではなく、「仕方なく神経堤細胞が出現してきた」という思考です。その遠因としては、卵黄の獲得がありますし、それに伴う原腸胚期での細胞数の爆発的増加があります。卵黄の量を増やすのも細胞分裂の回数を増やすのも、特別な遺伝子の獲得は必要ありません。ある程度までなら発生過程に特別な仕組みを導入しなくても問題なくこなせる変化でしょう。ただ、あるレベルを超えるとどうしても無理が生じてくる。そして、その「無理」を埋めるために仕方なく神経堤細胞という細胞が生み出されてきたと考えます。言語や思考にしても、それらを獲得してきたのではなく、もともと赤ちゃん(胎児)の脳にはすべての可能性をまっとうできる神経回路が備わっていて、生育の過程で不要な回路を排除していった結果としてある言語や思考を獲得してきたように見えるだけだと考えます。B細胞のクローン選択などは顕著な例ですが、こう考える方が、新しい機能をいちいち獲得するよりよほど説明しやすいし論理的だと思うわけです。キリンの首も伸ばせたから伸ばしただけであって、そこには大して意味はないのではないかということです。意味付けすることによって論理が恣意的になります。David ByrneもStop making senseと言うように、いちど意味付けするのをやめてみませんか?