思想・哲学書の読み方

「思想・哲学書を読むのが好き」というと、思想・哲学史について詳しいと誤解を受けることがたまにある。固有名詞(特に人名)をたくさん知っているとも思われる。しかし、謙遜ではなく全くそんなことはない。たぶん「読む目的」が普通の方とは異なっているのだろうと思う。

私が思想・哲学書を読む目的は、現在の自分自身が抱えている「問題」に関して考えるヒントがないかを探すことなのである。いま、何かについて考えている。考えているのだが、思考が堂々巡りをしてしまっている。考え続けれていればどこかで解決に至ることもあるだろう。研究をしていてもとにかく考え議論することで多くの場合に解決を見た。論文を読んでそこにヒントを求めると、規定の枠から出られないと思っているので、知識の量を増やすために論文は読んでも、基本的なパラダイムは自分たちで構築したいと考える傾向を私は強くもっている。また、論文を読むという行為は、多くの場合に新しく出版された論文を読むことになる。数限りなく公開されてくる新しい論文を追いかけるだけでも大変なのに少しでも過去に公開された論文を読んでいくことは、よほど何かに関して具体的に調べるのでない限り、物理的に不可能なのだ。もし何十年も前の論文を読めばいま橋本の脳の中で止まっている思考のどこかが動き始めるかもしれないのだが、基本的に科学は「記載」の学問であるため、論文のなかにはその時代の新しい「知識(要素)」が書かれていることが多く、新しい「思考(かたち)」が記されているものは極めて少ないと感じる。だから、とにかく考えるのだ。

対して思想・哲学書はその性格から見ても知識(要素)が書かれているのではなく、あたらしい思考の体系(かたち)が書かれていることが多い。もちろん、既存の概念を焼き直し、意味のない固有名詞を勝手に作ってそこに当てはめる思想書も多いが、科学論文に比べたらその割合は少ないと思う(根拠はなく、ただ「思う」だけだが)。また私は、独創的で新しい哲学概念を確立したいと思っているわけではない。さまざまな考え方を知ること、そしてそれらを自分なりに消化吸収して自分の考え方を見直してみることが思想・哲学書を読む大きな理由なので、過去の思想に触れることに意味はあるのだが、それが歴史的にどのような意味を持つのかに対してほとんど興味を抱かない。だから、誰かの思想を読んだとしても、それが誰の思想だったについてはまったく覚えていないことがほとんどである。ドゥルーズが「フーコー」という本を書いているのだが、そこに書かれている思想がフーコーの考えなのかドゥルーズの考えなのかについてはわたしにとってはどうでも良いことである。さらには、書籍に書かれた思想も、自分勝手に解釈をして自らの考え方に照らしているだけなので、学問的に正しい読み方ができているかどうかもわからない。たとえ間違えた解釈をしているにしても、(まちがえて解釈された)その論理が橋本にとって新しく意味を持つかどうかが重要なのである。

まあ、こう言っては身も蓋もないのだが、思想・哲学書を読むことは「自己満足」でしかない。そして、どこかで自分なりに納得できる論理が見つかればいいなあと思っているだけである。自分が死ぬ時まで考え続けて何も落とし所を見出せずに終わるのだろうなとは思うが、自己満足なので誰にも迷惑をかけることもないだろうし、それはそれでいい人生だったと思えるのだろう。カール=ポパーによると「すべてを説明できるものは科学ではなく宗教である」らしいから、自分一人だけが信者の「新興宗教」を作ることが死ぬまでの目標になっているのかもしれない。カントがどう言った、デカルトがこう言った、そういうことに興味はない。ただひたすら考えたい、それだけのことなのだろう。自己満足、それでいいじゃないか。