思考と嗜好(目的論)
生物の進化を考える際に目的論は徹底的に排除される。それが新ダーウィン主義の考え方だろう。エーデルマンは神経ダーウィン主義を提唱したがそこに目的論はない。要するに「〇〇するために変異する」のではなく、「変異した結果(淘汰されずに残った結果)〇〇した」と考えるわけである。以前、レクチャー後にお客様から「キリンは目が悪かったと思う」と言われた。趣旨は、目が悪かったから「高いものをよく見ようとして首を伸ばした」ということだった。ある場所で雑草が生えていたが、「雑草抜き」が始まるとその場所では雑草の背が低くなってきたという事実があったそうだが「抜かれないために雑草の背が低くなっていった」のではなく、背の高い雑草の方が目立つため抜かれる確率が高かったから背の高い雑草のゲノムは淘汰され、結果的に短い背丈の雑草(のゲノム)が残ってきただけであると論理的には考える。要するに「〇〇するため」という思想を排除することによってダーウィン主義が確立したと言えよう。
では、進化は何のために起きているのだろう?もちろん「何のためでもない」とするのが正しい。生き物は勝手に生じ、勝手に変化し、環境によって偶然に淘汰されなかったものが残ってきたに過ぎない。そこに意味など成立する余地は、科学的には、ない。しかし、進化という現象を違う角度から見ると異なる景色が現れる。生き物を考える時、基本的には現存する生物からの想像でしか成立しない。「現存しない生物は存在しない」のであるから、議論の対象にはなれない。もちろん絶滅種も進化の対象であろうが、その論理はその時点で絶滅しなかった生物との対比によってのみ語られるはずである。すなわち、どの時代を議論するにしても、その時代に生存していた生物から議論は進むのである。端的に言えば、すべての生物が死に絶えた時に進化の議論は成立しないのは明白であり、その意味において「進化とは生存することを(結果的に)目的としている」とできると橋本は考えている。まあ、これは単なる屁理屈というか、見方・考え方の違いで話は終わることなので、これ以上議論を深めるものでもないのだが。
以前にも書いたが、ただの物理現象のみが存在していた太古の地球に「いつ情報が誕生したのか」という質問にしても、そう問われたら不思議に感じられるかもしれないが、これは言葉のマジックであって、情報という言葉の意味を考えれば、その情報を受け取って解釈する存在がなければ情報は成立し得ないし、どんな物理現象であっても、それに意味付けできる主体があればそこに情報は誕生するわけで、それはある「物理的存在」が、突然「情報」に変化し物質的な意味で「出現」したのではない。「誰もいない森の中で巨木が倒れた時、そこに音はあるのか?」という哲学の命題と同じである。もっと言えば、「情報」が出現したのではなく、情報を情報たらしめる主体が出現した時に「情報(という概念)」が突然に生まれたという方が理に適っている。情報を受け取り、そこに意味付けできる主体とはもちろん生物である。