思考と嗜好(ゲノムと淘汰圧)
中立的に物事を見ることがなかなか難しい。論理的に思考している時でも、「論理的」だから公平中立に考えられているのかと言えばそれは違う。私たちの考え方には、生まれ育った環境に依存する癖がある。言語が論理に影響することは何度か論じてきたし、宗教観なども如実に論理に影響を与える。地域性もあれば、出会ってきた人や書物による影響も少なくない。だから、客観性を考え始めたら思考を停止させるしかないようにすら思う。「科学的」と言えば多くの人は「客観的」だと考える。しかし、我々の脳の振る舞いはすべて主観であるし、その根本に横たわっているのはそれぞれの脳が持つ論理性であり、それをひとことで言えば「個々の脳の癖」としか言えない。
さて、「違い」は個体差にまで突き詰められる。私とあなたで顔かたちが異なれば、それを作る機構も異なっていて当然であろう。しかし、人というカテゴリーで見ると、その形づくりの仕組みに共通性は明らかに認められる。これが生物としての「種」であろうし、タクソンと考えられるものの正体であろう。そして、これを形作る情報の総体を指してゲノムとする。同様に、霊長類のカテゴリーに共通する仕組みもあるだろうし、哺乳類としての、羊膜類としての、脊椎動物としての、そして脊索動物としての共通性がそれぞれあるはずだ。だから、それらを「霊長類ゲノム」、「哺乳類(羊膜類)ゲノム」、「脊椎動物・脊索動物ゲノム」と呼んでも差し支えなかろう。多様性があってこそ普遍性は存在しうる。違いがある以上、生物種ごとに形づくりの仕組みが違っていて当然であるが、同じカテゴリーに属せば形づくりに共通性はあるべきである。普遍とは、多様から相違を除いたところにある。脊椎動物の形づくりにおける普遍性が、脊椎動物を脊椎動物たらしめる「何か」であり、それを解明することを究極の目的としている。だから、我々人の脳も、「初期状態」でみたら原則的には横並びに共通のものだろう(もちろん遺伝的な質の違いは存在するだろうが)。それがどの言語によってフォーマットされているのかというところで大きな違いが生み出されると考えて良いだろう。
脊索動物の形づくりは、我々が示している両生類の統一モデルを基準にすると基本的に同じように見える。これまで「正反対と思われるくらいに違っている」とみられてきたトリと両生類の発生などは「まったく同じ」に見える。この事実の重要さは、羊膜類出現の意味を両生類の発生過程に求められる可能性が見えてきたことにある。これまでに羊膜類の間で原腸形成機構が極めて似ていると考えられてきたかことから考えると、実はそれほど良く理解されていない哺乳類の原腸形成過程にも、われわれのモデルを通して新しい知見が得られると信じている。
ゲノムは確率的にかならず何らかの変異を有しているため、すべてのゲノムは「新規」のものであると考えられる。これまで試されたことのない新しいゲノムは毎回淘汰圧に晒され、淘汰圧から逃れることができたゲノムだけが残る。だから、淘汰圧の制限を受けないところでのみ多様性が生じうる。この「淘汰圧」は、その生き物が属する分類群の形づくりのメカニズムに一義的には収斂するのかもしれない。ゲノムは卵の中で発生過程を試行する。だから、ゲノムに導入された新たな変異は、まず既存の卵による正常発生過程を経ることによってしか、子孫に残ることはあり得ない。だから、ゲノムの変異への許容度は、発生過程を全うできるか否かに一義的には担われているはずである。こう考えると、脊椎動物というカテゴリーを定めている本態とも言うべきものは形づくりの過程であり、「ここだけは逸脱できない何か」が発生過程の普遍性として残っているのだろう。だから、普遍的な形づくりを妨げない変異は残りうるが、それを逸脱する変異は残り得ない。脊椎動物では卵形成過程は多種多様であるため、この辺りには変異を許容できるゆとりがあるのだろう。しかし、咽頭胚を作る過程はきわめて良く似ている。長い進化の時間を経て、なおかつ似ている(保存されている)とすれば、それは何らかの選択圧がかかっていることに他ならない。この、ゲノムの変異を許容するか否かを決める発生過程を「発生拘束」と呼び、自然選択よりもより大きな淘汰圧となっていると私は考える。