思考と嗜好(原索動物と脊椎動物)

脊椎動物の出現を考えるとき、卵黄の獲得が大きな意味を持つと考えている。卵黄の獲得により卵が巨大化した。卵が大きくなると細胞分裂の回数が増えなければ、細胞運動可能なサイズの細胞を持つことができない。原索動物(無脊椎動物)は原腸胚で100個程度の細胞数しか有しない。しかし、わかっている限り脊椎動物の初期原腸胚は数万の細胞を有する。卵黄を大量に持とうとすれば、原索動物の発生様式ではたち行かず、独自の発生様式を必然的に産み出したと考えるしかない。ここに原索動物と脊椎動物の違いがあるのだろうと思う。

原索動物のように個々の細胞の分化運命を決定できる場合は問題ないが、爆発的に細胞数の増えた原腸胚では細胞の運命を大ざっぱにしか決定できない。この場合に問題となるのは境界の設定方式であろう。オーガナイザーが神経誘導を行なう際に、神経と表皮の境界を決められない。それは分泌因子による濃度勾配が必然的に生じるからであり、これによりその境界領域では神経にも表皮にもなれない細胞が、理屈の上では、残ることとなる。それが神経堤細胞だったと私たちは考えている。何にも分化していないこと、すなわちこれからなんにでも分化できるということであり、発生後期に多種多様な組織へと分化する神経堤の性質が表れている。神経堤細胞は、脊椎動物を定義する細胞であり、もちろん無脊椎動物にはその原型的なものも含めて一切存在しない(十年に一度くらい「ホヤで神経堤細胞の原型が見つかった」という論文を目にするのだが、そのまま立ち消えてしまう)。したがって、神経堤細胞の出現に進化的な連続性はなく、進化の過程で突然現れたと考えて問題ないと思っている。なので、いかにして神経堤細胞が出現したのかを知ることこそが、いかにして脊椎動物が出現したのかを知る直接的な答えになるとも考えられる。そして、この論理から、卵黄を過剰に獲得したからこそ神経堤細胞が出現し、脊椎動物の誕生となったと我々は考えるのである。

個体発生過程で神経堤細胞が誘導される機構を知ることで、進化の過程で神経堤細胞がどのように生じたかを知るという論理は、ゲノムの変化に駆動される脊椎動物の出現を考えるのではなく、発生機構による脊椎動物の出現を考える方法論である。繰り返しになるが、エサを獲得しなくとも複雑な(あるいは大きな)体を作りうるという意味から見ても卵黄の獲得は生物の生存にとって有利であろう。したがって、卵黄を多く持てば持つほど生存には有利であることは想像に難くない。生存に有利であるとすれば、それは個体発生家庭においても有利であることを意味する。この辺りは「目的論的思考」が強いように感じられるかもしれないが、生物の進化を考えるときに目的論は完全には排除しきれないどころか、生き物はその存在理由から目的論なくしては考えられないはずである。したがって、淘汰圧は卵黄を増やす方向に向かっていたと考えても構わないだろう。そうすると、ある限度を超えて卵黄を獲得した場合に上で挙げたように、それまでの発生様式では対応できなくなってきたと考えられる。そのときに胚性誘導により大まかに領域を決める戦術を獲得し、その結果として神経堤細胞を産み出したと考える。積極的に神経堤が生じたのではなく、結果として「仕方なく」神経堤のような細胞群が生じざるを得なかったという考え方である。

卵黄が少しずつ増えることは、ゲノムにそれほど大きな変化が無くても済みそうである。しかし、その結果として生じた「卵」は、これまでと同じ発生過程を成就するには困難なものとなっている。その条件で発生できるように対応するようにゲノムは変化している訳で、これは、発生現象を全うする上での必然性に対応する形でゲノムが変化したという意味において、ゲノム駆動型の進化とは正反対の考え方と言える。