敬語(または年寄りの愚痴) 1/3
敬語を知らない若者が増えているらしい。そんなのは私が若い頃からいたし、特に問題ではないと思う。問題だと感じるのは、「敬語を使う」という気持ちを持たない若者が増えてきたことではないかと感じる。昔は(今でも)間違った敬語でも話そうとする若者がいた。その気持ちがなくなったら「敬語」の議論以前に日本人としても美徳の問題になってくる。
ある人のことを考える。その人は人品骨柄卑しからず、尊敬に値すると個人的に思っている人である。その人のことを第三者に話す時には無意識に敬語を使う。たとえばある集まりに「〇〇さん来てましたよ」という言葉に対して、「へえ、〇〇先生いらっしゃってたんや」と答える。ここでの「さん」と「先生」はこの議論とは関係ない。先生と言っても尊敬できない人はいるし「さん」と呼んでも尊敬に値する人はいるからだ。話を戻そう。その人のことを話す時に「来てた」とは言えない感覚ってご理解いただけるであろうか?言えないという表現は誤解を招くかもしれない。「言えない」のではなく、その人のことを表現する言葉の選択肢の中に「来てた」という単語が存在しないのだ。この会話が相手に聞こえるわけでもなく何ら私が得する話ではない。無意識下でそういう感覚になっている。もちろんこの感覚は成長する過程で習得してきている。
ここで言いたいことは、正しい敬語を知っているかどうかではなく、敬語を使う気持ちがあるかどうかが重要だということだ。ただし、言葉は正しくなくては相手に通じない。だから正しい敬語を知らなくてはならないのであって、正しい敬語を知ることが目的ではない。でも、自身の周りで正しい敬語を「正しく」使っている環境で育てば、その子は正しい敬語と共に(その環境にとって「正しい」)認識を持つことだろう。要は、「この人に対してはこの言葉を使う」という認識が刷り込まれるわけだからである。
(つづきます)