記憶に無い

いま「記憶に無い」という言葉が新聞紙面に踊っている。

「記憶に無い」という言葉がごまかしのために使われているという文脈が多いようだ。

たしかに、「◎◎したかどうか記憶に無い」というのであれば

非常に不確かで曖昧な表現になる。

しかし、「◎◎した記憶はない」は非常に明確な表現だと思うし、

これ以外の表現は逆に不誠実だと感じる。

自分のことを考えてみても、一言一句同じではないがこの趣旨の言葉を私はよく使う。

その理由は、過去のことは自分の記憶にしかないからだ。

 

◎◎したという事実が私の記憶にはない、

だからそれは無かったはずだという明快な論理である。

誰だってこの論理以外には立てようがないと思う。

写真や録音などで証明できない限りは記憶に頼るしか方法はない。

いや、写真や録音だって、切り取り方でいくらでも恣意的に操作できるからアテにならない

(こんなことを言っていたらなにもできないのだが・・・・・)。

なんにしても、過去の発言の有無に関しての論拠は当事者の記憶しかあり得ないし、

その物事が無かったという「事実」も記憶に依るしか表現しようがない。

だから、「絶対に言ってない!!」と強く主張をする人よりも、

「記憶に無いから言っていないと思う」という人の方が

論理的には正確だし、個人的には信用できる。

 

私は、まず「言っていない」みたいな表現はしない。

「絶対に!」と思っているときでも、

「私は○○という考え方をしているから、正反対であるそういう言葉は言わないはずだ」

くらいしか言わない。

あるいは単に「言ってない・・・と思うけどなあ」くらいだ。

 

だからなのか、

「そんな極端な言葉をいったら絶対に覚えている」

そして「そんな記憶はない」

だから「私は言っていない」

という論理展開は至極全うだと思ってしまう。

 

これも、あくまでも記憶に頼っている発言だから、

「本当に言っていないのか?」と問われれば

「言っていないと思う」としか答えようがない。

そうとしか答えようの無い質問をして、

「不確かだ」「ごまかしている」というのは屁理屈でしかない。

 

繰り返すが、言った言わないはその人の記憶に頼る以外に方法は無く、

「聞いた」人が正しくて、「言っていない」人が怪しいなんて感覚こそ、

至極恣意的であり信用できないと思うのだ。

もっと言えば、「記憶に無い」を信用できないとする同じ議論で

「聞いた」人だって本当に正しいのかは「信用できない」。

論理的には両者に差はないはずだし、それ以前に「人は嘘をつく」。

だから、片方を前提として他方を議論することに違和を覚えて仕方がない。

 

「この人が嘘をつく必要がない」という主観的な理由でこの人が正しくて、

そのきわめて危うい感覚を真理として大前提において、

それにそぐわない意見はすべて怪しいとする論理こそが怪しい。

過去にも、「単なる恨みや妬み」で嘘を言った例は数限りない。

「ただ注目されたい」という理由だって普通にあり得る。

「嘘をつく理由」なんていくらだって創造(想像)できるのだ。

 

だからこそ、この手の議論はあくまでも論理的であるべきであって、

感傷的・感情的に真実をねじ曲げることはすべきではないと思うのだが、

この感覚は私特有のものなのだろうか?

 

蛇足だが、もうひとつ、私が言い切らない理由がある。

それは、私はその意味を口にすることはないとしても、

私が発した言葉を聞いた人が誤解(私が意味するところとは別の解釈)

をしている可能性もあるからだ。

そんなことを考えていると「私は言っていない!」などと決して口にはできないし、

そう口にできる人をあまり信用できないのだ。