脱構築

自然の状態で言葉を学ぶときに文法から入ることはありません。

言葉とは表現を丸ごと覚えて

それを状況に応じて使い分けることが要求されるので、

単語をひとつずつ繋ぎあわせるという行為をしないわけです。

私たちが話すときを思い起こしても、

次に話すことを考えながら(言葉を探しながら)話すとかなりたどたどしくなります。

基本的には決まった表現が自然と口をついて出てくるわけです。

 

だから、敬語を勉強するなんて意味がないとなります。

勉強では実践に対応できないからです。

敬語が使えるようになる(敬語に限らずですが)最短の方法は、

正しい敬語が話されている状況に接すること。

その敬語を文章そのまま覚えて使ってみること。

それしかありません。

「謙譲語が・・・・丁寧語が・・・・・」ではなく

目上の人と話す時に他人が話している正しい言葉をそのまま覚える。

目下の人と公式に話している言葉に触れる。

その状況を確かめ、そこで使われる表現を確認することしか

正しい言語を話す方法は無いと思います。

 

さて、だから、言語表現は一定の決まりが出てきますし、

それが学者によって文法という形で抽出されるわけですが、

文法と慣習の境界くらいのところを考えると、

名詞や動詞・副詞など文法的な意味では間違えていないが、

でも習慣的にその表現はしないから「間違い」となる部分があると感じます。

この辺りは価値観や趣味も相まって線引きがなかなか難しいところなのですが、

これについてすこし考えてみます。

 

以前にも書きましたが「違和感を感じる」という表現はおかしいでしょう。

違和感は、覚えたり持ったりするものだと思うからです。

「頭痛が痛い」ってのと同じ「違和感」を覚えるわけです。

で、この「違和感」は文法的に説明はできるかもしれませんが

(「感〜感が続くといけない」みたいな)、

まあ、このあたりは大きな意味で個人の趣味の範疇にはいってくる可能性があります。

それがその人の文体になり癖になるという感覚でしょうか。

 

私は、英語を書くときにはかならず例文を参照します。

決して自分で英文を作ることはしません。

表現したい単語を辞書で調べ、

それらをつなげていくということは恐ろしくてできません。

その名詞が、私が言いたい意味で英語においても使われているのかわかりませんし、

その動詞が私の言いたい表現を示せるのか?

その動詞はどのような前置詞を伴ったときにどのようなニュアンスになるのか?

それらは個別では存在し得ない全体構造としてしか認識できないからです。

だから、とにかく英語を母国語として使う人の表現を完全に真似ることをします。

 

さて、学生に論文を書いてもらうと、彼らは「英作文」をします。

自分でゼロから英語を作るのです。

その英語のほとんどが「なんか変」なのです。

ただし、私は英語が苦手なので私の知らない表現があるかもしれないから、

まずは学生に尋ねます。

「この文章はどこかから取ってきた?それとも自分で作った?」と。

まあ十中八九、「自分で作った」と答えが返ってきます。

 

話が横にそれました。

ここで私が言いたかったことは、芸術的表現についてです。

私ごときが芸術を云々することはあまりにもおこがましいのですが、

「美しい日本語」とは別のいみで、

なんとも不思議な、新しい表現にであう時があります。

その場合、多くはこれまで習慣的には同時に用いられなかった表現を

あえて同じ文章中に入れることで斬新な感覚を表現していると感じます。

これはおそらく、我々が英語を自分の手で作文した時など、

時として、英語を母国語とする人には思いもつかない組み合わせの表現をしていると思いますが、

レベルは違えどそんな感覚で新しい表現が作られていくのかもしれないと思います。

規則というほど固いものではなくても、

習慣的に決まっているものをあえて壊し、あらたなかたちを作ることが

芸術的創作のひとつかもしれないと思うのです。

 

こう考えると「脱構築」という言葉が頭に浮かびます。

ウィキペディアによると脱構築は下のように説明されています。

「我々自身の哲学の営みそのものが、つねに古い構造を破壊し、新たな構造を生成している」。

さらには、この考え方の必然でしょうが、

「脱構築という思想そのものもまた、つねに脱構築され、つねに新たな意味を獲得していく」

とも書かれています。

私は、思想も言語も、あるいはゲノムも、ひとつの独立した体系だと考えています。

言語の変化,思想の変化と同様に、ゲノムの脱構築は起こっており、

それが「進化」として具現化されていると考えてもおかしくないのだろうと思います。