サービス残業

新しく会社を起こしたとき、

創業の仲間はみんな会社のことを我のためと考え働くだろう。

勤務時間も越え、かなりのサービス残業をしても不思議ではない。

特に会社の成長期など、皆が一丸となっているときなどには、

このような意識の統一が知らず知らずに行なわれているし、

たぶん動機付けも強く目に見えて成果も現れるから

過剰な仕事をしてもそれほど疲れないのかもしれない。

これは研究者にも当てはまるように思う。

もちろん研究者とひとくくりにはできない。

特に古いタイプの発生学者は「朝から夜中まで働く研究者」をバカにすることがある。

まあ言ってしまえば分子生物学者をバカにするということだ。

これには互いの言い分があるだろうから是非の問題にはできないし、

たぶんに個人の価値観や主義などが関係するだろう。

 

さて、会社がある程度の規模になり定常期に達すると、

ある程度仕事量が決まってくる。

そんなときに入社した人は、成長期にいた人と考え方が違ってもおかしくない。

定常期に入社した人はおそらくいまで言うところの労働環境を重要視する傾向があるだろう。

で、上司に当たる人は昔会社を大きくした人である。

この二人の労働に関する価値観は埋めよの無いものに感じられる。

上司には、時間外勤務したから手当をくださいと言う若者の気持ちがわからない。

会社のために働くことは当たり前であり、

それを自分の金勘定の話にすることが分からないのだろうと思う。

オレはあれだけ頑張ってここまで会社を大きくした。

だからお前たちはこんなユルい仕事で給料をもらえているのだ。

それに超過勤務だなんてなに寝言を言っているのだ!って感覚なのだろう。

 

我々研究者の世界にも似たようなことはある。

たとえば日本がまだ貧しい頃に外国で研究を成功して帰ってきた人などは

外国人相手に自分がどれだけ頑張ったかを誇りに思っている。

同僚の外国人が上手くいかなかったのは、

自分が上手くいったのはひとえに自分の努力のおかげだと、

夜も寝ずにひたすら実験をし続けたからあのタンパク質を発見したのだと信じている。

そういう人はとにかく他人に厳しい傾向がある。

実験が上手くいかない学生やポスドクを見ると努力が足りないからだと考える。

 

これらはどちらが正しいという問題ではなかろう。

上司は親心も込めての叱咤激励をしているつもりでも、

部下は強制的に仕事を強いられていると感じる。

世代間格差なのかわからない。

でも、いまの子たちでも、自分たちで起業しようとすれば、

おそらく労働時間を意識して働くことはなく、

とにかく会社が上手くいくように限界ギリギリまで努力をすることだろう。

やはり意識の違いで終わらせる話なのかもしれない。

 

問題は、互いに分かろうとせず自分は正しく相手が間違えているという対立を

多くの場合にうんでいるところなのではないだろうか?

もちろん他人のことを心から理解できることはあり得ないだろうが

端から拒絶するってのもどうかとは思う。

と言って、では相手を理解した上でどう対処すれば良いのか・・・・・

これは私には永遠のテーマになりそうである。