中立って

どこかの放送協会の会長や経営委員の発言がいろいろと議論を呼んでいるようだ。

ここでふと考えたことがある。

当たり前だが絶対中立などというものは存在しない。

だから、思想信条に属することに善悪はない。

思想信条を押し付けることはもちろんよろしくないが、

個人の思想信条を個人の意見として語ることは何も問題ではない。

そうでなければ言葉を発することはできなくなる。

極論すれば日本語を話す以上は仏教の思想を話すことにもなることがある。

使う言葉が仏教からきたものだって少なからずある。

これを「政教分離の原則に反する」と言って日本語を禁止するのか?

では何語なら思想的に完全中立を実現できるのか?

 

で、新聞紙上で読む限り会長の発言も委員の発言も私には納得できる。

長谷川さんの話は内容がかなり難しいので私が理解し切れているか疑問はあるのだが、

「難しい」を除けばさして問題発言だとは思えない。

もちろん思想信条は人により様々だろう。

だからこの思想に相容れない人がいらっしゃるのも理解はできる。

しかし、自分の思想と違うからという理由で他人の思想を否定はできない。

 

で、いつも疑問に思うのだが、

これらの発言を問題視される方々は

ではどのような発言なら問題視されないのだろうか?

日本国を卑下し、自虐史観に立って話すのはよいのだろうか?

私から見ればどちらだって個人の主義主張だし思想信条だろう。

それを、一方は良し他方は問題とする論理が分からない。

また、この問題を国会であげつらうことがどんな意味を持つのかも分からない。

これくらい低い水準の議論なら、何を話題にしても成立させられる。

要するにこの話題でなくたって構わないわけだ。

この問題に特化した議論というよりは、

もっと浅はかな「議論のための議論」「相手を叩くことが目的の議論」に感じられる。

もう少しだけ建設的な話をすることは考えないのだろうか?

 

個人の意見を言うことが禁じられるのなら人はなにも話すことはできない。

どのひと言をとってもそこに思想が繁栄されないことはあり得ないからだ。

だから、いま何かを問題視している人たちは、

その発せられた言葉を問題視しているのだろう。

だから最初の疑問に戻る。

では、どの思想を話せば問題になりどんな思想なら問題ではないのでしょうか?

その行動自体が思想統一の「思想」に基づいているとは思えないのでしょうか?

 

中立は存在しないと最初に書いた。

しかし、あえて中立を求めるとすれば

それは、両方の意見が混在する場にあるのではないかと思う。

今回の発言がここまで取り上げられているということは、

これまでこの意見を言う委員がいなかったということになる。

ということは、今回の件でより中立性が高まったと喜んでも良いのではないか?