ミステリ雑感
最近、私が読んだミステリに対して感じたことなのだが、
謎を前面に出して,その解決がいい加減過ぎるものが多かったように思う。
これは最近だけの話ではないのかもしれないが、
途中までは十分に面白い謎なのだが、
その解決が、「別にそれじゃなくても良いんじゃないの?」ってのばかり。
ちょっと表現が難しいのだが、
たとえば謎を提示したら、解決に至る「証拠」はすべて示されていなければならない。
もう少し緩い言い方にすれば、
解決のあとにもう一度謎に戻った時に納得できなければならない。
さらに別の言い方をすれば、謎が提示された段階での「証拠」で、
その解決以外の説明がついてはならない
(犯人がその人以外ではないと納得できなければならない)。
あまりに厳密に言い過ぎても問題があるかもしれないが
基本はこれを守ってもらわなければ興ざめする。
魅力的な謎の解決が、たくさんある可能性のひとつであり、
なぜその解決でなければならないのか示されない。
なんか分からないけれど、その人を犯人とし、
後にその人が捕まったからそれが証拠だと言われても、
別の犯人を設定して、その人を捕まえさせればそれで良いわけで、
そんなの推理小説ではないと思うのだ。
ただ、たとえば「謎」の存在を明確にしない書き方がある。
もどり川あたりの連城作品や,最近では容疑者Xってのもそうだろう。
これは、本筋だと思ってずっと読み進めていたら、
最後に全く別の物語へとかたちを変えるもので、
私の好みの推理小説だ。
これも、別にその結末やその物語でなくても構わないのだが、
この手の小説のキモはそこにあるのではない。
謎解き小説ではなく、謎の存在そのものを「謎」としているからだ。
読者は謎の存在に気付かない。
だからこそ、そこに謎があったことに気付かされて驚愕する。
これなら構わないと私は思う。
いつも言うことだが、あくまでも私個人の趣味・嗜好である。
だから別の好みがあってもまったく構わない。
で、なぜこのように思うのか?
たぶんそれは私が科学の研究を生業としている側面が大きい。
生きものの研究には、正解が生きものの中にある。
その正解を、実験や観察を通して垣間みる。
部分的に見えない景色から全体を想像する。
そこには勝手な物語を作ることは許されない厳しさがある。
勝手な物語(仮説)を作ったら検証しなければならない。
これらはあくまでも論理という方法論による。
私は推理小説の方法論も、謎解き小説の場合は特に、論理であると思っている。
与えられた証拠、そこまでに記載された情景の中に、
真実を推し量るために必要な要素がすべて存在しているべきである。
あるいは、与えられた証拠から導きうるすべての可能性は、
その時点では事実であると考えられなければならない。
いくつもの可能な物語の中のひとつを恣意的に取り上げ、
それを「正解です」と言われても納得できるものではない。
いま読んでいる本格ミステリと謳っている小説があまりにひどいから、
こんな文章を書いてしまった。
もちろんあくまでも個人の好みに鑑みた意見であり、
そういうのを好む人がいてもまったく構わない。
でも、それをミステリのカテゴリーに入れてほしくはない。
ましてや簡単に「本格」の称号を与えてほしくない。
話は変わるが、64は面白かった。