階層性とは

一月二日は「初○○の日」や「○○始め」ですね。

なので、今年のはじめとしてちょっと考えていることを書いてみます。

ただ、まとまらない話なので現時点での自分自身への問題提起です。

 

階層性を無視して思考することはまったく無意味であることはわかります。

全く別の階層にいる議論を同次元で展開しても混沌とするばかりでしょう。

団まりなさんも言うように、ここまではまあ普通の話です。

ここで、階層性をどう考えるのか?という疑問が生じます。

構造の階層性は明確だろうと思いますが、

ここに機能を組み入れて考えた時に、

その階層はどう変化するのか?

たとえば細胞と成長因子はあるはたらきを主に考えると

同一の階層として議論せざるを得ませんが、

その成長因子もタンパク質のひとつとして考えれば別の階層に移動します。

この時点で話が混沌に入ります。

私はこの数ヶ月くらい前から違う考え方をし始めています。

それは、階層性の議論は構造でしかできないということです。

だから、はたらき(機能)を階層性の概念に組み入れた途端に

カオス状態になって、そこまでの思考が消え失せるということです。

まあ、言葉としても、階層性という概念が扱っているのは間違いなく構造であり、

そこにはたらきを持ち入れた時に階層の概念が危うくなっているように思います。

 

分類という概念にはたらきの概念が入ることの意味が分からなくなっています。

分類は現存する生きものの中の相同性と相違性を見極めることなので

あくまでも「かたち」を問題とするわけですが、

系統という言葉が示すように時間を経た関係性を見極める場合には

確実に「変化」に目を向けなければならない。

これらはことば遊びのように聞こえるかもしれませんが、

質的にはまったく異なる考え方であるべきだと感じます。

だから「機能」をもとに「分類」するというのがある意味での語義矛盾にも感じられます。

たとえば、かたちという言葉をはたらきの概念で無意識に議論することがあります。

これは識域下で両者の違いを明確化できていないからでしょう。

たとえば分類学の思想に機能を用いれることはおそらく不可能だと思う。

無理矢理何か議論できるかもしれないけれど、

そこから本質にたどり着けるとは思えません。

ただ、系統進化という文脈になると、これは分類学とは一線を画する。

分類学の議論はその本質が哲学でありタクサは明確に哲学概念である。

この考えは時間の変化が取り込めません。

しかし、系統分類の考え方はあきらかに時間を相手にしています。

であるにもかかわらず、やはり構造(かたち)の問題を扱わざるを得ない。

これは「かたちの変化のかたち」というメタ構造の問題になっています。

これは、現実問題としてどのような階層性で扱えるのか?

私は、時間の概念が導入された瞬間に階層性として扱えないと思っています。

これは、はたらきを階層の概念に組み込めないからでしょう。

 

問題だと思うことがあります。

最新の知見で小さな発見は日頃から得られていますし、

もちろん機能から分類を行なう試みもなされています。

ただ、これらの発見をどうつなげるのか?

ここにどのような階層性を持ち込んで比較するのか?これがまったく明確ではない。

要するに、発見した細々としてモノを白地図の上に無秩序に並べているだけの感じがします。

この整理がまったくなされていないと私は考えています。

この本質はいろんな点にあろうかと思いますが、

ひとつの大きなものとして、上に挙げた「はたらき」と「かたち」の混同があるのではないでしょうか。