ソーカル事件

西川先生は、多方面の学問領域の人間を動員してゲノムの話を展開しようとしている。

この気持ちは本当によくわかる。

私にも西川先生並の行動力があれば同じことをやってみたいと思うし、

以前に行なった「かたちまつり」なんてイベントも、

規模は小さいが同じ哲学を持っていたと私自身は思っている。

 

先日、BRHのお客様でこの欄の読者でもいらっしゃる工学系の研究者の方とお話をした。

ここで書いている「ゲノム論」に共感くださり、

それを数学で表現して論文にしないか?とお誘いも受けた。

魅力的な話なのだが、個人的な不安があって明確なお返事をせずに話を終えた。

その不安とは、そこで表現された内容を自分自身が理解できるのかどうかというところに

まったく自信を持てないということに起因するのだ。

門外漢の人間にはまったく理解できない数式を見て

私の思想を正しく表しているのかが私には分からない。

これは、その方が私の思想を正しく理解している場合には問題ないのだろうが、

私の言いたいことを異なる理解をされている場合には

それを訂正する機会を全く持てないという絶望的な状況に陥るのだ。

というほど、大層な話でもないのだろうが、

性格的にどうしてもそういう方向に考えてしまう。

 

で思い出すのがソーカル事件である。

アラン=ソーカルのような人のいたずらを私が気付けるのか?といえば

間違いなく答えは否である。

どうせ世に問うなら、結果として非難されたとしても私の思考を正しく表現したい。

その方法論の問題なのだ。

ただ、おそらく私の思考は言語的記載では限界だろうと思う。

たぶん数学などの「論理」的な方法論が不可欠なのだろうとも思う。

そして、それに気付いた方が今回わたしに手を差し伸べて下さったのだろう。

ありがたい話なのだが、同時に上に書いたようなジレンマに突入するというわけだ。

「異分野フォーラム」ってのは耳には心地よい。

でも、オーガナイザーの能力が決定的に重要であろうことは疑いようがない。

私の思考を深めるには私がオーガナイズするしかないのだろうが

その能力が私自身に備わっていないのだから致命的だ。

 

いいたいことは山のようにあるし、議論したいことだらけなのだ。

ソシュールを読んでもラッセルを読んでも最後のところで「違う」と感じる。

その「違う」と感じるところの先がおそらく重要なのだろうと思う。

それを言語では表現できないようだ。

でも、言語以外の表現方法、思考方法を私は持たない。

ああ本当にもどかしい。