ゲシュタルトの概念

先日この欄で、西川先生の「情報」とは橋本の「意味」であろうと議論した。

何でも良いのだが、たとえば塩基が配列として並んでいるだけでは情報ではない。

アミノ酸も単体では情報ではない。

しかし、それが形をなし働きをもつと情報になる(という文脈だったと思う)。

で、この「情報」を、橋本は体系化されたゆえの意味であるとしたのだ。

 

この欄の読者なら容易にお分かりいただけると思うのだが、

この文脈での「意味」とはア・プリオリに成立するものではない。

ア・プリオリには意味のない「要素」が何らかの関係性を持って

他の要素と絡み合い、それが体系(かたち)となって初めて意味をなす。

したがって、この場合の「意味」とはゲシュタルトと言っても良いだろう。

ただ、ゲシュタルトを言ってしまうと、この語を一義的に「形態」と考えて、

「情報」は「形」ではないと一笑に付される。

まさにこれが西川先生と橋本が交わした会話の一部分である。

でも、橋本のいう形や形態とは目に見えない関係性をさす。

すなわちゲシュタルトのことであり、

逆に言えばゲシュタルトとは要素の並び自体を指すものではないのだ。

要素が並んだ時に、要素の総和を越えた意味を形成する、これがゲシュタルトである。

 

ということで、ゲシュタルトをまとめてみよう。

 

・まずは「要素」の存在は前提として考慮されるが、

この「要素」とはなにも具体的なものである必要は無く、

ある種の概念的なものであっても何ら問題はない。

・「要素」自体は意味を持ち得ない。

・要素が意味を持つということは、要素が他の要素と関係性(かたち)を構築し、

相対的に「意味づけ」がなされた結果としてのみである。

・複数の要素によって構築された「かたち」もまた「要素」となりうる。

・このように要素には二通りある。

ひとつはそれ以上は分けることのできない要素であり、

強いて固有名詞で呼ばれる類いのものといえるだろう。

もう一つは下位の要素が織りなす関係性が閉じて新たな要素となったものであり、

これは概念的な考えに近いものかもしれない。

 

で、西川先生の「情報」についての議論にはかたちとはたらきの混同が随所に見られる。

この点が、橋本のような思考をする人間にはかなり紛らわしいのだ。

「アミノ酸が並んだら(かたちとなったら)意味(働き)を持つ」と平気でおっしゃる。

私には、アミノ酸が並ぶこととそれが意味を持つことはまったく別次元のことなのである。

おそらくは、西川先生も、このまったく別次元のことが

いかにして起きたのかについて議論しているのだろうが、

この議論の仕方が橋本には乱暴に感じる。

 

まあ、なんにしてもゲシュタルトの神髄を見いだすことが

意味を見いだし存在を見いだすことに関わるようには思う。

そして、この話を思考するといつでも「色即是空」の感覚にとらわれてしまうのだ。