再び・かたちか情報か?

複雑な個体発生を行なうための情報が、

その複雑なハードを作ったがゆえにその構造からの拘束を受け、

拘束を受けた「ソフト」が機能しうるという制約によって

次に作られる構造にも制約が入り込むというゲノムの入れ子構造の話をした。

 

脊椎動物の発生を考えた時に、

神経堤の形成とそれに続く頭部構造の形成がきわめて重要であると考えている。

理由はいくつかあるのだが、

砂時計モデルに示されている「くびれ」のかたちが高度に保存されていることもそのひとつである。

変異は中立にどの発生過程にも入りうるはずなのに、

また実際に卵形成から受精後の発生などは多岐に渡っているにも関わらず、

神経胚から咽頭胚の形が脊椎動物を通じて似通っていることは、

そのかたちに何か意味がなければならないことを暗示しているように思う。

それはたとえば原腸形成運動による細胞の大規模な並び替えによって

それまでの多様性を収束させる意味で、

このくびれの意味は個体発生のみならず系統発生を考える意味においても、

重要であるのかもしれないという感じのことを考えているのだ。

 

ただ、進化の過程で残ってきているものには、

もちろん原因はすべて偶然であっても、

特定のかたちだけが残ってきたこと、

あるいは他の変異がすべて残らなかったことには

意味がなければならない。

その意味を考える場合に普通にはそのかたちが持つ機能的な意味を考える。

くちばしがこのような形をしているからこの食べ物を食べやすいみたいな感じだ。

しかし、脊椎動物の咽頭胚の形に機能的意味を見いだすことは難しい。

想像を逞しくして意味をこじつけがちになる。

だから私も、咽頭胚の形には触れずに、

そのかたちは重要だという前提にして議論をしている。

それが原腸形成過程を考える理由である。

 

さて、咽頭胚の形が保存されているという事実をソフトとハードの文脈で考えてみよう。

原始的な脊椎動物が生じたときには卵から成体への個体発生過程は

論理的に考えてもひとつの方法(道筋)しかなかっただろう。

そこに様々な変異が入ることでゲノムレベルでの多様性が生まれたと考えるのは良いと思うが、

繰り返しになるが、あらゆる変異を許容したとしても、

かならず咽頭胚に収束させる意味があるということが問題である。

先日からの議論で、あるかたちを作った瞬間にゲノムはそのかたちの拘束を受けると考えた。

この場合のゲノムとは、ハード(かたち)に対するソフトである。

かたちもまた、ソフトが働きうるという拘束を受けるはずであると書いた。

ソフトとはどういう概念と考えたら良いのか明確には分からないのだが、

閉じた体系であろうし時間軸を伴うはずであるというのは容易に想像できる。

ただ、設計図を例に議論したように、

このソフトにはかたち(ハード)を作り上げる情報が載っていなければならないということが、

PCのソフトとは明確に異なる点である。

すなわち、ハードとソフトが互いの変異を相互に拘束し合うという図式に加えて、

そのハードを作る情報自体がソフトそのものであるということが

事実を難しくしているのだろうと思う。

まあ、こういう考え方をすると、

その実体は分からないにしても咽頭胚の形を拘束している情報が

ゲノムに乗っているのは明らかなので、

ソフトとしてのゲノムが働くためには「あの」かたちでなければならない何かがあって

咽頭胚の形が変えられないということであり、

ゲノムに乗っている「変えられない咽頭胚のかたち」の情報は当然だが変異を受け入れない。

この相互拘束ともいえるがんじがらめの状態が形成されて

脊椎動物は進化してきたと考えても議論自体は間違ってはいないのだろう。