新・かたちか情報か?

さて、発生の設計図としてのゲノムの情報はその通りで構わないと思います。

今回は少し見方を変えて考えてみましょう。

 

まず、単細胞生物のゲノムの場合には、

細胞複製とともにゲノムの複製も起こるということですから、

多細胞生物の細胞分裂時のDNA複製と少なくとも分子生物学的には同義に捉えられます。

しかし、多細胞生物になるとどうでしょうか?

単純な多細胞生物なら単細胞と同じことで済むのかも知れませんが、

細胞ごとに機能分化した生きもの、

組織・器官がそれぞれの役割を持ち確立した生きものを考えると

すこし何かが違ってくるように思います。

まずは、ゲノムにそれぞれの組織・器官を形づくる情報が載らなくてはいけない。

まあ、これが個体発生の情報としてゲノムに書かれているのでしょうが、

この情報は、ゲノムを複製するという意味での直接的なはたらきではありません。

この辺りは個体発生と進化のつながりを考える上で大切な気がしますが、

ここでは深く触れずに先に行きます。

さて、組織や器官を適切に形成するということを考えた場合に、

細胞同士、組織器官同士のコミュニケーションが生きものにとっては重要となります。

これは当たり前のようですが、実はそこそこ深い問題だろうと思うのです。

というのは、まったく異質のはたらきを有する細胞同士が存在するということによって、

それまではあり得なかった何らかの拘束がかかってくるのは間違いないからです。

その拘束というのは単純に個体発生を正常に行なうために必要な拘束と言っても

おそらく大きくは間違えていないでしょうが、

単細胞や、非常に簡単な細胞構成の生きものであれば、

ゲノムの変異はある程度許容できるわけで、

それは形づくりに関しての拘束がきわめて少ないからだと言えるでしょう。

しかし、ある程度の機能分化が進み複雑化した生きものにおいては、

ゲノム云々以前にゲノムの変化は発生拘束に縛られてしまうということになります。

これは、一般に淘汰圧という言葉で生きもの的に解釈されていますが、

ゲノムの方向から見たらあくまでも発生現象から受ける縛りです。

この拘束というのは、言葉を変えればある構造が形成されたことによって

必然的に生じるソフトのような感覚だろうと言えるとも思います。

こう考えると、そのソフトが動くというのが進化の前提になるわけで、

したがって、多細胞化し機能分化したゆえに必然的に生じたソフトが、

今度は次に生じるかたちの変化を拘束するということになってしまったのでしょう。

このソフトというものは、ある程度は緩い「遊び」を持っていることは想像に難くありませんが、

でもその「遊び」には限界がある。

変異が「遊び」の許容範囲を越えたら、

それはゲノムとして生存できないかそれとも別のソフトに変換されなければならない。

この「ソフトのコンパティビリティ(日本語でなんというの?)」が大きな意味での分類群に相当する、

このように考えると宮田先生のおっしゃるソフトモデルと発生現象が

思考的には分かりやすく近づいたのではないかと思います。

 

すなわち、ゲノムの変化によって生きものの構成が複雑化し始めた。

すると、ゲノム自身が己を複製する情報以上の情報を持たねばならないこととなり、

そこに必然的に個体発生はかくあらねばならぬという拘束が生まれた。

その拘束は個体発生を縛ることによりゲノム自体を縛ることとなった。

このゲノム自身を縛る拘束をハードに対するソフトだと位置づけた場合に、

ゲノムに平等に入るべき変異に対しても、

ソフトの性質を維持できるものと維持できないものに分けることが必然となり、

ここで分類群という生きものの形に具現化される「なにか」が生じたという論理です。

まあ、きわめていい加減な理屈の進め方であって

「風が吹けば桶屋が儲かる」レベルの論理であることは否定しませんが、

でも、進化における淘汰圧のかかり方を個体や個体群に還元して考えるのではなく、

ゲノムのレベルまで意識を戻して考えることで何か新しい思考が目覚めないかということです。

 

続きはまたいつか。