続・かたちか情報か?
ゲノムがかたちでも情報でもどっちでも良い!って方が大勢でしょうが、
まあ、もう少し考えさせて下さい。
たとえば家を造るときの設計図を想像します。
基礎を作るとき、柱を立てる時に屋根をかけるとき、
その都度その都度、設計図の必要な部分をコピーして用いると考えたら、
その設計図はゲノムの情報で、コピーは遺伝子発現ってことになるでしょう。
そうして家が完成したらその情報は必要なくなります。
いや、同じような家をあちこちに未来永劫造り続けるとすれば、
設計図はずっと必要でしょうし、
設計図自体を複製する必要はあるかも知れません。
こう考えると設計図とゲノムが同じように考えられるようにも思いますし、
何となくですが、発生学の研究者はゲノムをこのように考えているように思います。
要するに大工さんが細胞であり卵であって設計図がゲノムであるという感覚です。
この考えは、発生学者にとどまらず多くの分子生物学者も同様だろうと思いますし、
さらに言えば、構造主義生物学者も結局はこの議論に終始していたように思います。
というのは、設計図主義者vs大工さん派の図式を演じていただけのような気がするからです。
要するに見た目は正反対に見えるだけで、
その主義主張はまったく同じところにある人たちのディベートだったという気がするのです。
さて、ゲノムはもちろん設計図としての性格は持ち合わせています。
しかし、家の設計図と全く違うわけで、
何が違うのかと言えば、極端な言い方をすれば
作り上げた家が新たに自分自身の設計図を描くという感じでしょう。
いや、ちょっと違うな。
家の情報であると同時に、大工さんを作る情報でもあるということかな?
要するに、でき上がった家の情報は必ず持っているし、
その同じ家を造るべき大工さんを作る情報も持っているはずですよね。
いわば、家は構造であり空間情報であるのに対し、
大工さんは機能であり時間情報である。
この両者を作る情報を設計図自体が持っているということで、
さらにいえば、この大工さんは設計図を引く能力を持っているということになります。
このような考え方をしているからこそ、
ゲノムが単なる設計図(一般的に考える意味での設計図)ではあり得ないし、
一義的な意味での情報の枠を超えたものとして理解されるべきだろうと思うわけです。
まあ、ことばとしてはどう言っても構わないと思います。
ただ、概念としてゲノムを情報と捉えることは間違えていると感じています。
それは私個人の考えなのでその真偽や是非を云々しても仕方ないでしょうが、
上に書いた意味でのゲノムというモノをもう少し(哲学的に?)思考思索することで
実験的にするべきことが見えてくるように感じています。
この「実験的」とは必ずしも手を動かす実験でなくても構いません。
思考実験も立派な実験でしょうし、
それによってゲノムのあるべき姿が見えるかも知れません。
あるいはあってはならない姿も見えてくるでしょう。
少なくとも現在の分子発生生物学の姿勢ではゲノムへのアプローチにはほど遠いと感じます。
それは上に書いたように、ゲノムを一義的意味での設計図としてしか捉えていないからです。
このような観点から、化学物質としてのDNAとゲノムの違いは
個体発生過程に帰結するという私の立ち位置が少しだけ明らかになったかも知れません。
ただ、これはゲノムの正確な複製という時間的にはきわめて短い議論に過ぎず、
これの繰り返しによって、設計図の引き直しに誤りが起こったり、
設計図の一部を紛失したり、あるいは同じ図面を二回引いてしまったりすることの議論は、
また別の思考が求められるでしょう。