ゲノムと個体発生
このところよく似た文章を書いています。
というか内容的にはほぼ同じといっても良いかも知れません。
その理由は単純明快で、
「こういうこと」をずっと考えているからです。
ゲノムは情報ではないという立場を私は取っています。
もちろん情報であることは当然ですが、
情報と言ってしまうとその本質が隠されると思うからです。
そして、現在の多く(ほとんど)の方がゲノムと情報と考えています。
だからそれとは一線を画するという意味をあえて込めて、
「ゲノムは情報ではない」という訳です。
で、はなから逆のことを書きますが、
ゲノムは4文字からなる一次情報です。
それはまぎれもない事実でしょう。
ただ、ゲノムの本質は同じもの(DNA)を残すことにあります。
要するに複製して子孫を残すということであり、
この点が単なる化学物質としてのDNAと異なる本質的なところでしょう。
この「子孫を残す能力」はゲノム自体が持っていなければなりません。
しかし化学物質としてのDNAは子孫を残す能力を一義的には有さない。
だからそのはたらきを細胞や卵に託すこととなります。
そしてその細胞や卵を作る情報がゲノムに載っているという入れ子構造こそが
ゲノムの本質だろうということです。
分類学はもともとタクサを探すという哲学大系にも似た学問に端を発しています。
タクサとは、これ以上分けたら個体差になってしまう直前の、
これ以上分けられないという概念を指します(まあ生物種くらいにお考えください)が、
当たり前のことながら、タクサとタクサの中間はその定義上あり得ません。
しかし、化学物質としてのDNAにはいくらでも中間はあり得ます。
あらゆる部分の塩基配列がほんの少し変わっているDNAなどはいくらでも想定できます。
にもかかわらずタクサ、あるいは分類群なる独立したものにそれらの変異は収斂するわけで、
その違いを考える時にゲノムを情報としてしまっては思考が止まると感じるのです。
ある集団に収斂し、ある一線を越えてしまったものは別の集団に収斂するか、
あるいは生き残れないかという目に見えない圧力が働く。
それはまさしく己を複製し子孫を作る際に働く力であり、
それは個体発生過程と密接に関連しているということになるのではないでしょうか?
そして、その関連こそが生命の本質というのか、
ゲノムがゲノムたる意味ではないかと思うのです。
DNAがゲノムになった以上はタクサを形成するのは避けて通れない道であるということで、
これこそが生きものの論理であると思えてなりません。
中村桂子館長は「生命の論理を見つけたい」とおっしゃいます。
私は、「生命の論理とはゲノムの論理である」と考えます。
この際のゲノムとは単なる情報ではありません。
ゲノムの持つ情報は一義的に考えるとほぼ意味を持たないように思えます。
酵素やタンパク質、あるいはそれらの発現を制御するというような意味が、
あるいはまだ我々が知らないような意味がゲノムの上には乗っています。
それらの意味を組み立てていけばゲノムの理解は進むのか?と問われたら、
私は「否」と答えます。
意味は文脈においてのみ規定されるわけですから、
決定的な意味など存在するはずもなく、
そこにゲノムあるいは生命の本質を置くということは間違っていると考えるからです。
ゲノムを複製し子孫を残すという行為は生物の定義ともいえます。
だからドーキンスは利己的な遺伝子という概念を提出したのでしょう。
ただ、どうしてもゲノムを考えるときの思考形態は時間を止めているように感じます。
比較形態学も、形態学という以上は仕方ないのでしょうが、
固定されたものから何かを導くという方法論であるわけです。
ただ、現実の個体発生を見てみると、
ある器官や組織の作られる時期などが
おそらくはその生物種の何らかの都合によって大きく違っています。
でも成体になれば同じ構造を持つということです。
でも、作られる場所や時期が違うということは、
個体発生過程が異なるということであり、
個体発生の情報を持っているゲノムが違うということとなります。
個体発生(かたちづくり)の微妙な時期が異なるということは、
異なる情報を持つゲノム同士がかけ合わさっても正常発生は行なえないということであり、
だからこそ子孫にゲノムを残せないということになるはずです。
これがゲノムの違いを収斂させるひとつの仕組みであるのは間違いないでしょう。
ただし、これに意味付けするのは違うと思います。
これはあくまでも結果論であり、こういう因果関係自体がゲノムの本質だろうということです。
個体発生を見ることは、我々が苦手とする「時間と空間を同時に見ること」が必要とされます。
これまでは時間を止めて比較検討してきたものを、
時間軸を含めて比較検討するということに変わるということであり、
ここにゲノムの意味が隠されているような気がするのです。
もう少し続けたいのですが、続きはまたいつか。