制度か人か?その2
昨日の続き。
イジメの問題なんか最たるものかもしれない。
性善説をとればイジメなど存在し得ない。
いじめるのは一部の「悪いヤツ」だけだから、
そいつらを処罰すれば済むってことだ。
だから、「イジメは基本的に存在しない」という前提で制度ができている。
もしかしたら、自分の受け持ちのところ(クラス・学年・学校など)でイジメがあったら
その教員の評価が下がるのではないか?とさえ疑ってしまうくらいに
隠蔽体質は強烈であると感じる。
なぜ隠蔽するのかって?
そりゃ、イジメはないんだから、
自分の周りにだけいじめがあったらまずいでしょ。
で、イジメが隠し通せないくらいに明るみに出た場合に誰が悪いのかといえば
それはいじめた人間であり、それを止められなかった教員や保護者となるはずで、
決して体制や制度の問題にはならないだろう。
でも、どこの世にもイジメはある。
それを前提に体制を作り替えればもう少し現実に即した制度になると思う。
まあ、あえて言えば性悪説に立つということだ。
これでもイジメはなくせないだろうが、
イジメはあるという前提に立てばイジメを受けた人間を守ることはできるだろうと思う。
あるいは、イジメがひどくなる前に何らかの対処ができると思う。
イジメはないとするから初期のうちに手を打てない。
それが制度の根本的な問題だろうと思うのだ。
「イジメはどこにもあるんだよ」ってひとこと言うだけで
現場の教員の負担は軽くなるように感じるし、
そこから新しい動きが始まるんじゃないかな?