教科書

漫才コンビ・ロザンの宇治原は、

「教科書にアンダーラインを引くところはない」と言っていたそうだ。

その理由は、「教科書に書かれていることはすべてが必要最小限のことであり、

すべてが最も重要なことだからである」だそうだ。

 

話は変わる。

ずっと、「意味は文脈によってのみ規定される」と私は書いている。

だから、一つの文章である単語を規定しても、

それはいくつもの意味としてとり得る可能性を残す。

だからこそ、同じ単語が使われている異なる複数の文中にその意味を見いださなくては

真の理解というものには到達しないのだろうと思う。

 

私は高校の時にはほとんど勉強というものをしなかったので、

これからのべることは大学での勉学のことであるが、

たぶんその本質は変わらないだろう。

大学に入るととにかく専門書を読むことで勉強をした。

と言っても、専門書は何種類もある。

執筆者が異なる(したがって内容は全く違う)同じタイトルの書籍が並んでいる。

「生化学」と称する分厚い書籍が少なくとも4〜5冊は並んでいた。

「植物生理学」も「発生学」もそれぞれに数冊は並んでいた。

で、私はとにかく一冊を読み終わったら別の本を読み始めるようにした。

人によれば、同じ本を何度も読んで理解を深めるというが、

私にはその方法では理解が深まらないのである。

あることばをある文脈で説明しているのだが、

その額面は理解できるけれど、本質的には理解できているとは思えない。

額面は理解できているから試験では満点が取れる。

でも、そのことばとはなんという意味かとの問いには答えられない。

で、別の書籍に目を通すと、

同じ内容で同じことばが書かれているのだが、

そのことばに至る経緯が異なるし文脈が異なる。

もっと端的に言えば、そのことばを用いる文章が(当然だが)まったく異なる。

そうすると、一冊目の本を読んでいてわかっていたつもりになっていたところに

本当の光が当たるのである。

「ああ、なるほど、最初の著者はそういう意味を伝えたかったのか」と気付かされる。

これは二冊の順序を入れ替えても同じことだ。

これがおそらく「意味を理解する」という過程なのだろうと思う。

 

教科書とは、これらの最大公約数が書かれているに過ぎない。

要するに、どの書籍をひもといても、

そのことばだけは最低限記されているということが並んでいるのが教科書だろう。

だから、教科書に下線を引くという行為がいかに愚かかということになるのであろう。

この意味では、参考書も違う出版社の数冊を読み比べる方が

一冊を徹底的に勉強するよりも効率が良いこととなる。

もっと言えば、歴史ならヒマな時に歴史小説を読む方がいいし、

数学でも数学の歴史など、例えば微分という概念はどのように生まれてきたのか、

について読んで理解する方が、

微分の問題を解く方法論を覚えるよりもはるかに理解は早いだろう。

今ではなくなってしまったと聞く(また復活したのだろうか)行列も、

その歴史的意味や概念を理解することこそが、

数学の深い理解への近道だろうし数学的な応用へともつながる。

 

まあ、そのために授業があり講義がある。

先生は、生徒が知らないことをたくさん知っている。

ある事象についても、教科書に書かれているのとは異なる、

さまざまな表現方法で説明してくれる。

だからこそ、授業を聴くことが学問の理解に直結するということなのだろう。

だって、教科書だけ読んで勉強できるなら先生は要らないよね。

https://hashimochi.com/archives/1895も参照して下さい)