dangerとdangerous
以前にアメリカ人二人と橋本の計三人で話をしていました。
その時にdangerとdangerousの違いについて橋本が質問したときの話です。
きっかけは小さなことで、
ロック(音楽です。酒の飲み方ではない!)の話題の時に
映画トップガンの主題歌、ケニーロギンスの歌うThe danger zoneの話になりました。
そこで、何となくかねてより思っていたことを尋ねたのです。
それが、「danger zoneとdangerous zoneはどう違うの?」って疑問でした。
そして二人の答えが面白い。
片方は、「同じだ」と答え、もう片方は「違う」と答えました。
「違う」の説明は、dangerousは「マジ危ない」に対して
dangerは「必ずしも危険という訳ではない」ということで、
danger zoneという単なる名称の場所があっても構わないし、
そこが危険である必要はないということです。
で、二人の意見が分かれたので真偽のほどは定かではありませんが、
結局のところ、われわれが話すことばなんてこの程度のことなんだろうってことです。
fingerとthumbにも似たような話があって、
日本では、指は5本と言いますが
英語では1本の親指(thumb)と4本の指(finger)というとむかし習いました。
しかし、あるアメリカ人はfive fingers(5本の指)で構わないと言い、
別のアメリカ人はone thumb and four fingersだと言います。
もちろん、二人のうちのどちらかが単にものを知らないだけなのかも知れませんが、
でも、言語っていうのは移ろいゆくものであり、
この程度の違いを許容しても十分成り立つものであろうということでしょう。
絶対的な意味がア・プリオリに存在し、それを駆使して文章を構築するのではなく、
育った環境で出会うさまざまな文章から単語や文章の意味を切り取るということで、
だから、たとえば育った地域が異なれば自ずから意味も異なるでしょうし、
同じ地域で育ったにしても、あるいは同じ家庭で育ったにしても、
個人によってその文章から得る感覚は異なる可能性があるということです。
それこそ、その家庭の中だけでしか通じない意味合いもあると思いますし、
その小学校だけでしか使われない意味も存在するでしょう。
それは、「意味」とは日々の生活や環境を含めた日常の中で見聞きする文章により
暮らしの中で会得するものだからです。
意味は自ずから相対的であると常々申しますが、
周囲に好例はいくつでも転がっているのでしょう。
もう一つ、面白いなあと思ったことがあります。
それは、おそらく「肩」というモノの認識が
アメリカ人と日本人では異なるだろうってところです。
肩はshoulderと訳しますが、
これが、日本人が切り取っている「肩」とは異なるのです。
たとえば、「肩こり」の「肩」はたぶんbackです。
即ち「背中」という認識であり、
shoulderが凝ることは彼らには想像つかないらしいのです。
そんなことを言い出せば、
むしろまったく同じことばに言い換えられる単語を探す方が難しいでしょう。
日本語で「首」というと「頭部」の意味にもなりますが(生首とか)、
英語のneckに頭部の意味は絶対にない。
要するに、fingerでもneckでも、あるいはdangerやdangerousを用いてきた過程で、
それらが意味付けされているということに他ならないということだろうと思います。