時間vs空間(論理vs情報)
ゲノムは論理体系の一種だと考えている。
ただの情報の羅列ではなく、その情報同士が関係性を築き、
それらが空間的時間的に厳密に制御されて具現化したものが生きものであり、
したがって、ゲノムの情報が放散してしまってはマズいという理屈である。
で、ゲノムを考えると、どうしても時間の止まったままの、
単なる塩基の配列であると見てしまう。
あるいは、そこに遺伝子という情報が載っている箱船のような感覚かもしれない。
ここで、一般論として論理体系を考えてみると、
論理には時間的な流れが必然的に存在する。
論理の体系を構築する際に、それが一瞬には成立し得ないのは直感的にわかる。
それは即ち、論理の構築は脳の所作であるからだろう。
脳の中にさまざまな要素が何らかの地図のように配列しているのかもしれないが、
それが時間を止めた地図として働けないのは、
時間を必要とする脳の機能に依存しているのだから当然であろう。
だから、先日にも脳の働きを時間的空間的にマッピングした時に
そこに何らかの論理との相同的何かが見えないか?と書いた。
さて、これは論理体系としての言語にも同じことがいえそうだ。
ここで、ここだけの前提として言語と論理は同じ次元の体系であるとしておくと、
言語にしても、その論理体系としては時間軸を必然的に伴う。
しかし、伝達手段としての言語を考えると、
少なくとも視覚言語という体裁をとった場合に情報としては時間を止められる。
これは、ある論理を伝達手段としての言語に翻訳した時に時間を止められるのに似ている。
この「伝達手段」あるいは「情報」となった場合には、
まさにハードディスクに書かれた情報と同じレベルで認識できるのかもしれない。
こうなると、ゲノムを一義的に考える際に時間を止めるということが
何となく理解できるように思う。
それは、以前にここで書いたように、ゲノムは体系的要素とともに、
伝達手段としての意味(すなわち情報)をも持つからである。
まあ、こう考えると、ゲノムと言語の相同性って議論に舞い戻るかもしれないが、
でも、その表面的な類似性ではゲノムの理解にはほど遠いだろう。
また、言語は、その成り立ちを脳の構造に依存している可能性がある。
とすれば、かなり短絡的だが、言語構造はゲノムに依るとも考えられる。
ただし、たとえばゲノムと本質的に同じ体系として、
言語が表面に現れたとも考えられそうだが、
こうなった場合には、それがなぜヒトなのかという問題にぶち当たる。
ヒトもカエルもゲノムの構造としての複雑さには大差はないだろう。
それなのに、仮に言語がゲノムを具現化したものとして、
それがなぜヒトだけなのか?ってことだ。
まあ、これはたまたまそうだったで済ませられる問題であり、
ここで止まるべき重要なことではないのは分かるが、
でも、ゲノムと言語の間が相似か相同かは根本問題として議論されるべきだろう。