脳科学?の可能性は

またまた、勝手に脳科学なんて言葉を使っていますが、

実際に脳科学のことは何も知りません。

ただ、怪しげな脳科学者が氾濫しているので、

まあ、それと似たようなものとして考えて頂ければけっこうです。

 

脳科学にもさまざまな方法論が存在しますが、

どの方法論にしても、脳の働きを人間の行動や思考と結びつけるのは

基本的には同じではないでしょうか?

というのも、脳の働きの結果として人間の行動や思考があるのでしょうから。

 

さて、現在は何かを考えたりする時に脳のどの部分が活発に動いているのかを

先端機械を用いて調べるという方法があるようです。

何となくですが、これもわりと原始的な行動の解析に制限されるように思ってしまいます。

というのも、人間が人間たる思索や思考活動は、

おそらく言語により、あるいは宗教によりさまざまに異なるだろうと思えるからです。

したがって、思考思索を生物学的な脳の働きには還元できないと私には思えます。

例えば棋士が将棋を指している時に脳のどの部分が働いているかは分かります。

それが一般の人が将棋を指す時の脳が働く場所と異なることも分かります。

さて、それでなにが分かるのか?ってのが私の疑問です。

 

それをもう少し、別の意味合いで考える時に、

物事の意味付けには比較対象が必要であることを前提とすれば、

何か面白いことが見えそうに思えるのです。

たとえば、原始的な生物としての人間の判断・行動とは異なり、

哲学的、あるいは論理的な思考をしている最中を、

さまざまな人種間で比較した時に発火する脳の部位に差異が見られるのかどうか?

見られるとしたら、異なる論理試行を繰り返し行わせた時の

脳の生理学的な動きを情報としてみたとき、

そこに何か意味のある大きな違いが出現しないのか?ってことです。

そして、脳という領域の中での空間的・時間的な「行動」の違いと

その大元の論理体系の「かたち」との比較により、

極論すれば言語の出現、あるいは論理の構築の方法に関する

生物学的な痕跡が見出せないかと思うのです。

これは何となく昔から思っていただけのことで、

これ以上なにも議論に耐え得るモノを持っていませんが、

論理や思考の痕跡はおそらくゲノムには書かれていないだろうというのは

まあどなたにもご理解いただけるのではないかと思います。

では、それがどこから出現したのかと言えば、

それはヒトの脳の特殊性によらなければならないのだろうと安直ですが思うのです。

 

論理というのはすべからく要素同士の関係性です。

それも、かたちという視点で切り取ると時間軸を考慮できないけれど、

間違いなく論理というかたちには時間軸が存在するわけで、

それが、その論理体系が実際に動いている脳の中に描かれる

一連の模様の変化として何らかのかたちで記載できないかと思うのです。

無理なのかなあ?????