体系の構築
体系を構築する時にまず必要なものは要素の切り出しだろう。
連続するその他のものから特定のものをあるカテゴリーによって切り分けることがなければ
構造を形づくる要素が成立し得ない。
逆に言えば、要素が存在すれば、それらが互いに何らかの関係性をもってならび
それが意味を構成できるということだろう。
人間が自然数というものを与えたときに、
自然数同士がたがいに関係性を構築し、そこに法則性が生じた。
それは、人間が意図しなかった法則性が、
自然数という概念を切り出した時に出現したということだ。
この考え方をもとにすると、
要素が異なれば、他の要素との関係性も異なってくるのは間違いないといえる。
で、言語なのだが、いや、言語の遥か手前の何かかもしれないのだが、
赤ちゃんが物事を学習する時にはことばを介する他にないだろう。
その際には、その言葉がすでに持っている切り分け方に依存する。
物事がア・プリオリに存在しない以上は
ある物事を何らかのかたちで切り取らなければならない。
そこにあるのは言語体系だろう。
赤ちゃんはいきなりことばを覚えるのもではなく、
とにかく混沌の中から言語によって切り分けられた物事を習得していくだけだ。
「これはワンワンよ」と言われて犬のぬいぐるみなり実物なりを見せられる。
犬と言っても多種多様である。
でも犬は猫とは異なる。
こういうことを毎日のように言葉によって学習させられるのだ。
そうして犬というカテゴリーや猫というカテゴリーができあがる。
まあ、犬猫なら言葉による違いはそうそうないだろうが、
日常生活にからむ事柄には言語により切り取り方が異なっているものが多い。
多いというよりも、ほとんどすべては言語により異なると言えるだろう。
ということは、そもそも赤ちゃんの脳に構築される体系をかたちづくる要素が
そもそも言語によって大きく異なるということに他ならないのだ。
まったく異なる切り出しをされた要素群からなる体系が、
まったく同じかたち(関係性)になるという方が考えづらい。
だから、切り出し(差異の与え方)の違いだけとっても
そこから成立する体系の違いは至極当然の帰結だろう。
さらに、切り出しは要素の域を超える。
短い文章を聞かされる中で、
単語と単語の間をつなぐものに意味を見いだす。
それこそがことばの論理だろうし、
その論理、即ち関係性を日常から切り取っていくのだ。
さて、このような考え方をする時に、
チョムスキーのいう表面構造と深層構造をどのように捉えたらいいのだろうか?
ここにチョムスキーの(私には)理解できない本質が存在しているのだろうと私には思える。