なぜを問うこと2
理由を問うことは人間の思考にのみ許されるようなことを先日この欄で書いた。
これで思うのが社会科学と自然科学の違いである。
両者は学問的(科学的)方法論は原則共通であろうと思う。
ではその違いとは何かであるが、
それこそが人間の思考の手前にあるか向こうにあるかだろう。
自然科学は、とりあえず対象がすでに存在している。
もちろんアプリオリに存在しているとは言わない。
その存在自体を人間の脳が何らかのかたちで切り出しているだろう。
しかし、切り出しの方法はともかくとして、
とにかく研究対象はすでにある。
それに対して社会科学は、研究対象が人間の所作の結果と捉えられる。
人間の活動がなければ経済学は成立しないだろう。
法学も社会学も、一般に自然科学に入らないと考えられている学問は、
おそらく人間活動の結果を科学的に考察しているのだろうと思う。
だから、社会科学にはどうしても「なぜ」が入り込む隙間ができる。
ただ、個々人の考えや思考を越えたところで
人間の行動は集団として科学的に捉えることができている。
まあ、蟻や蜂の行動を科学的に研究するのと同じ方法論が通用するようだ。
そうすれば、「なぜ」を入り込ませる余地が見いだせない。
そう考えたら、これはあくまでも主観なのだが、
社会科学の方が「なぜ」と問われないような気がする。
経済の動向や社会の動きに「意志」を問うことが少ないように思う。
これは、自然科学、特に生物学と比較してのことだが、
生物学の研究にはどうも擬人化した説明を求める傾向が強いような気がするのだ。
これは、やはり対象が「生命体」だからなのだろうか???
なんだか不思議だ。