ことばを覚えること

赤ちゃんが言葉を話す時、

まさにカテゴリー化や切り出しを行なっているはずである。

おかあさんが「これなあに?」と聞く。

赤ちゃんは初めは分からないが、

おかあさんに「これはみかんよ」と繰り返されると、

次にはその言葉をそのまま模倣して「これはみかんよ」という。

しかし、この時にその言葉の意味が分かっているとは思えない。

「これなあに?」に対して「これはみかんよ」と答えるとよいことを

直感的に学習したに過ぎないのだろうと思う。

だから、「これはみかんよ」と話す言葉の解剖はできない。

とにかく文字で書けば連続した7文字を発音しているだけである。

で、「これなあに?」に対して単に「みかん!」と答える人がいるし、

「みかんだよ」「それはみかん」などさまざまな答えが生じてくると、

みかんという単語を直感的に切り出せるのだろう。

結局はすべての物事がこれの繰り返しであり、

赤ちゃんにとっては認識も識別もできないただの宇宙が

ひとつずつ情報となっていく過程があるのだろうと思う。

そして、これはまさに言語の獲得には相違ないのだが、

無垢の脳に切り出す方法やカテゴリー化することを学習させる時に

人間社会では言語が介在せざるを得ないわけだから言語習得となるだけで、

それと言語学の扱う言語は、どこまで明確な区別ができるか不明だが、

両者は質的に違うと感じる。

 

この赤ちゃんとの対話の際に意味が与えられるのは

一つながりの短い文章とその場の状況や雰囲気のみであろう。

その過程で相手から漂う雰囲気や機嫌の善し悪しなどを感じ取り、

赤ちゃんはその状況に対応する言葉をそのまま受け入れる。

そして、似たような単語を含む全く別の言葉をいくつも聞くことで

共通する単語の意味を切り出していくというのはその通りだが、

同時に、動詞や副詞・形容詞などなども、

それらが持つ意味合いやニュアンスも複数の言葉の比較から体得しているだろう。

もちろんここに文法など介在する隙間はない。

これを繰り返し、周囲から情報を切り出し、

その情報をどう並べたらどのような状況を指し示す言葉になるかを

あくまでも経験的学習として習得するのだろう。

 

同様のことは発音にもある。

日本語のラ行と英語のL・Rは、日本では同じ音として一つのカテゴリーに入れられているし、

英語では異なる音として認識するように学習する。

それはあくまでも「みかん」を切り出すことと同一の作業なのだと思う。

 

まあ、これはすでに言語が存在することが前提の議論であり、

その言語を用いて特定の発達段階で脳のフォーマッティングをするわけだから、

人の思考には言語的な影響が根深く残るとも考えて構わないだろう。

 

で、ここからは言語自体の起源のようなことはおそらく何も言えない。

なんとなく赤ちゃんが言葉を習得する過程と類似性はあるような気もするが、

まあ、これに引っ張られたら思考停止してしまうだろうなと思う。